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2015年1月

2015年1月25日 (日)

御国を来たらせたまえ

 本日の礼拝説教は、先週の丘の上と基本的に同じです。新しいことを一つ、お話しします。 
 神の国は、未来に向かって求めるものですが、「今、ここにある」という面を持っているということです。この地上が、天国のような楽園になるというのではありません。神様のみこころが、私たちのいるこの場所で、この状況の中で表されることを求めるのです。それは、未来へもつながります。自分が死んだ後、天国に入れられることだけを望みとするのではなく、今日という一日の中で、天国があらわされるような日を送ることです。
 空の鳥、野の花を見る時、子のことを感じます。神様の営みの中で、悠々とくらしているのです。そこから、神の国を求めることを学びたいですね。

 神の国とその義とを、まず第一に求めなさい。マタイ6:33
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2015年1月17日 (土)

み国への道 1サムエル13:8-15  2015.1.18

イスラエルの王といえば、2代目のダビデが一番高く評価されていると思います。それに比べ、サウル王については、あまり良い印象を持たれていないのではないかと、説教の準備をしながら感じました。初代の王に任じられ、主の霊を激しく受け新しい人に変えられたにもかかわらず、神様のことばに忠実に従うことがなかった、というのが多くの評価であるように思います。そして彼の最後は、戦場においては自害であり、後継ぎとなることを願っていた彼の子のヨナタンも敵の手に落ちて死んでしまいます。その首は晒しものにされ、サウルの死はイスラエルの敗北を象徴するものとなってしまったのです。惨めな最期です。
 しかしながら、サウルは彼なりに一生懸命初代王として務めたように思うのです。彼の出身は、ベニヤミンという小さな部族です。小さな政党の党首が総理大臣になって、国政を預かるようなものです。サウルの時代には、周りには強い軍事力を持った国があり、他国との境界だけでなく、部族間の境界線すらはっきり決まっていないような状況でした。新しい国のかたちができかけている時代です。そんな中でも、大切な戦いに勝利し、新しい国を何とかして築こうと努めたのでした。
 本日のテキストにある、サムエルの到着を待たずに全焼のいけにえをささげたのも、無理からぬことといえる出来事です。敵は迫り、味方の兵士が引きはじめているような中では、まさに「やむを得ない」ことだったと思うのです。それでも彼は、サムエルによって彼の王国は長くは続かず、やがて分裂すると告げられます。サウルにとっては、ショッキングな言葉だったでしょう。自分の働きを全否定されたようなことです。しかも、自分に任職の油を注いてくれた人から言われるとは、大きな失望があったと思います。
 私は、そのような中でもサウルは王としての任務を全うしたと考えます。確かに、神のことばに素直に従わず、ダビデに対して猜疑心を持って彼を殺そうとしたことは、間違ったことです。しかし神様は、サウルを12年間イスラエルの王として立て、ダビデの時代になる土台を作ったのです。ここに神のあわれみがありました。
 サウルの一番大きな過ちは、自分の王国よりも、神が立ててくださる王国に目が行かなかったことではなかったでしょうか。主の祈りにある「御国が来ますように」という祈りは、目に見える繁栄を求めることではなく、神様の御心が今日、この日も私たちのいる場所で行われることを求める祈りなのです。あなたが求めているのは、ご自分の繁栄ですか?それとも、神様の御心がなること、神の御国でしょうか。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。マタイ6:33


空の鳥を見よ

 「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」マタイ6:26

 これを英語でいえば、バードウオッチングですね。過日、日本野鳥の会のNさんに案内していただき、初めて「探鳥」しました。望遠鏡越しにアオサギを見たとき、彼(彼女?)もしっかり、こちらを見ていました。その目力には、ぞくっとしましたね。Nさんいわく、「教会にはいろいろな鳥が来るでしょう。」確かにその通りです。これからは、イエス様のように空の鳥を見てみたいと思います。このブログで、丘の上の鳥たちを紹介できたら、うれしいです。そういえば以前、メジロやオオタカのころをアップしたことがありましたね。
 探鳥しながら歩いて感じたのは、天の父は空の鳥を養ってくださるのに、人間が開発という名の下で、鳥たちをどこかに追いやってしまっているのではないか、ということでした。一緒に仲良く暮らしていく、そんな小さな一日が、世界の平和につながっているのではないでしょうか。

2015年1月11日 (日)

聖書にたずねて ピリピ2:12-18 2015.1.11

 本日は、日本福音自由教会関東東地区新年聖会での、説教です。

私が初めて「日本福音自由教会」を知って交わりに加えていただいたのは、上越を出て春日部教会に集った大学1年生の春でした。日本だけでなく、世界中にはキリスト教会といっても多種多様な教派があることは、だいぶ後になって知ったことでした。それぞれに歴史と特徴がありますが、聖書を神様のことばと信じ、イエスキリストを救い主として受け入れているところは、共通です。仏教にはあまたの経典があるようですが、キリスト教にはこの聖書1冊しかありません。
 福音自由教会は、この聖書が最も大切であることを信仰告白の第1条として、記しています。
 「新約聖書を原典においてなんら誤リなき、霊感された神のことばであリ、人間の救いについて神のみこころを完全に啓示し、すべてのキリスト者の信仰と生活の神的、究極の権威であることを信じる。」
 何やら硬い表現ですが、聖書は誤りのない神様のことばであるとの信仰表明です。ピリピ2:16には、「いのちのことばをしっかり握って」とあります。聖書をしっかり握ることが、邪悪な時代にあって世の光として輝くことができる、と言っているのです。
 どのようにして聖書をしっかり握ればよいのでしょうか。5本の指で物を握るように、5つのポイントがあります。まず第1は、「聞くこと」です。信仰は聞くことから始まります。礼拝、祈り会などでみ言葉の説き明かし、すなわち説教を聞くことは、信仰生活の基本ですね。第2は、「読むこと」です。年間を通じて聖書を一回は読み通したいものです。黙読もいいですが、音読はみ言葉の深みを味わうのに有益です。第3は、「学ぶこと」です。聖書を専門に学ぶことは、大変興味深いことで、その深さには切りがないでしょう。そこまで行かなくても、聖書に何が書いてあるかを観察し、意味を考え、自分の生活に当てはめていくことが大切です。第4は、「暗記すること」です。み言葉を暗記することは、心に蓄えることです。そして第5は、「黙想すること」です。心に蓄えたみ言葉を思い起こし、反芻する、そのことによって一つの一つのみ言葉が、自分のものとなっていくのです。
 2015年も、すでに10日経ちました。新しい年、新しい心で主のみ言葉をしっかり握り、この世にあって輝く日々を送らせていただきましょう。


2015年1月 4日 (日)

新しい人の歩み 2015.1.4 1サムエル10:1-9

三ケ日が過ぎ、すでに新しい年の生活をスタートさせた方があるでしょう。多くの方にとっては、明日が仕事始め、子供たちは今週から新学期を迎えることと思います。「新しい」というのは、ただそれだけですがすがしい気持ちになります。これまでの過ちがあれば悔い改めて、清い心で過ごしたいと願うでしょう。つらく悲しいことがあれば、たとい状況は変わらなくても、前を向いて進みたいと気持ちだけでも新たにして踏み出したいと願うことでしょう。
 イスラエルにおいては、士師の時代から王制に変わっていく転換点が、本日の聖書箇所です。すなわち、イスラエルの初代王としてサウルが油を注がれて神よって立てられる、王制に移行して国のかたちが新しくなるという場面です。サウルはイスラエルにあって、小さなベニヤミン族の出身でした。健康な肉体を持っていましたが、初めから王になろうとしていたのではなく、むしろ人目を避けるようなへりくだった人物でした。しかしサムエルよって油を注がれると、神からの霊が激しくサウルに望み、預言者のように神からのことばを語って預言する者となりました。それは、王としてのしるしでした。この箇所の聖書のことばでいえば、「新しい人に変えられた」のです。新し人とは、別人のようになるという意味です。変えられるとは、ひっくり返るという意味のある言葉です。生身のサウルであることに変わりはなかったのですが、神の霊を受けて別人のようになった、全く新しくされたサウルになったというのです。神のために、そしてイスラエルの民のために仕える者となりました。
 この出来事は、聖霊によって新しくされることを示した物語ともなっています。ある晩イエスのもとを訪ねたニコデモは、イスラエルの学者であり、指導者の一人でしたから、当然この物語を知っていたでしょう。イエス様は彼に、
「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言われました(ヨハネ3:)。それはイエスを信じ、聖霊を受けることによって実現するのです。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(ヨハネ3:5)とある通りです。
 サウルは、初代王としてイスラエルを守り、国を強くすることができました。しかし高慢になり、神からの霊が離れていくと、家臣のダビデを殺害しようと企て、王としての道を外れてしまうのです。キリスト者は、聖霊によって新しくされた者です。どんなに新しいものでもメンテナンスが必要なように、聖霊によって取り扱われ、日々新たにされていく必要があります。それは自分勝手な思いではなく、聖霊に導かれた生活なのです。
 新しい年、毎日が新鮮であるために、御霊に導かれ一年を共に送ってまいりましょう。

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」ガラテヤ5:16


2015年1月 3日 (土)

年頭あいさつ

 2015年、明けまして、おめでとうございます。
 本年も、よろしくお願いいたします。・・という感じで、皆様も新しい年を迎えられたことと思います。この「おめでとう」というのは、「愛でる」と言う言葉から来たそうです。いわば、祝福を与えるあいさつのことばで、私はあなたを大切と思っています、今年も良いお付き合いをしていきましょう、神様の祝福がありますように、という意味でしょう。
 私は、例年のように中央会堂で元旦礼拝をささげ、1日、2日は丘の上で釜をかけてお越しくださる方々との交わりを楽しみました。主にあって、共にイエス様の道を歩んできたいと思います。
ELC教師たちとの写真、ご挨拶代りに貼り付けました。私たちのためにお祈りいただければ、幸いです。
 良き一年でありますように。在主

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2015年1月 1日 (木)

イエスの道を進む 2015.1.1 マタイ5:43-48

2015年、明けましておめでとうございます。本年も、み言葉に仕えてまいりたく、よろしくお願いいたします。
 この「おめでとう」というのは、「愛でる、めでる」からきているそうです。大切にする、尊いものと思う、という意味であり、新しい年になってお互いを祝福する挨拶のことばとして用いられていると考えられます。
 本日の聖書箇所は、イエス様による山上の説教の一節です。48節は、この中心ともいえる聖句で、キリスト者がイエス様の弟子として進むべき目標を表しています。
 「天の父が完全であるように、完全でありなさい」
 ここでの完全という意味は、欠点が一つもない聖人君子のことではありません。そちらのせいじんではなく、成人、大人という訳になっているように、キリスト者として成熟していくことを表しています。父なる神様に倣っていく、つまり、イエス様を目当てとして成長していくキリスト者の歩みを示しているのです。
 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(へブル12:2a) 
 イエス様がこのように言われる前に、敵を愛し迫害する者のために祈ることが命じられています。なかなかできないことです。その文脈で、
「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:45)と言う言葉が出てきます。これは、神様の恵みはすべての人に分け隔てなく与えられているということを、自然の太陽や雨に例えて言われているところです。このことを私たちが本当に理解する時、あなたの嫌いな人も、神様には愛されている、大切な存在であることに気づきます。そして自分のことが嫌になっている人は、実は神様からご覧になれば、愛する大切な存在であることに気が付かないでしょうか。
 神様は、この自然界の管理を人間に託しました。しかし人間は、神様の造られた自然の秩序を自分たちの都合の良いように変えてしまった結果、本来平等に与えられている恵みをゆがめてしまったのです。不公平が生まれたのです。
 新しい年、自分も、そして隣人も大切にするために、このみ言葉に立ち返る必要があります。イエス様の道は、神様の恵みがどんな人にも等しく与えられていることを指し示す道なのです。


 

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