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2015年3月20日 (金)

イエスの道を行く  マルコ10:32-35  2015.3.22

 イエス様はご自分の最期が近いと感じられた時、これから起こることを12人の弟子たちに預言として語られました。マルコの福音書には3回そのことが記されており、それぞれに弟子たちの反応、それに対するイエス様の言葉が続いています。
 本日のテキストは、第3回目の告知であり、弟子たちがいかにイエス様の最期の意味を理解していなかったかをさらけ出している物語です。「親の心、子知らず」と言われますが、師の心を全く理解できない弟子たちの姿が描かれているのです。イエス様がこの世に来られたのは、45節に書いてある通りです。
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
 イエスは父なる神様に従う中で、人々に仕える道を歩まれたのです。しかしここに描かれている弟子たちの姿は、自分だけがイエスの次に偉いものとしていただこうとする、まことに自己中心的な姿です。およそ仕える者ではありません。この「仕える」と言う言葉から、英語のディーコン、執事という言葉が生まれました。教会や大きなお屋敷では、執事は特別な人がつく役職の一つとして使われている言葉ですが、本来はいろいろなことによって奉仕することを表します。そういう意味では、クリスチャンは皆、執事といってよいでしょう。
 マルコ14章には、食卓についているイエス様に、純粋なナルドの香油を惜しげなく注いだ女性の物語が記されています。その様子を見た弟子たちは憤慨し、無駄なことをするとまで言った者もいました。売れば300デナリ、およそ1年分の給与に匹敵するほど高価なもので、そのお金で貧しい人たちに施したらよいと思ったのです。確かに施しも、仕える者の姿でしょう。ところがイエス様は、弟子たちを戒め、彼女のしたことを称賛し、「この女性はわたしのために立派なことをしてくれた」と言われたのです。この女性こそ、イエス様のいく道を知っており、彼女のできる精いっぱいのことをしてその道を行こうとしたのです。
 私たちは、イエス様の最期を知り、自らをわきまえているでしょうか。また、その行くべき道は、イエスの道をたどることであることを、どれだけ悟っているでしょうか。受難週を迎えるにあたって、イエス様の歩まれた道を、私たちも心の巡礼としてたどってまいりましょう。

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。1ペテロ2:21


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