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2015年4月

2015年4月26日 (日)

聖徒とされた人たち  1コリント15:1-9 2015.4.26

先週の20日は、日本文化宣教協力会セミナーin京都の一環として、望洋庵を訪ねました。カトリック教会の、青年育成のための施設で、聖書の黙想を体験的に学ぶことができました。
 カトリック教会では、生存中にキリストの模範に忠実に従い、神の人々のために、またその信仰を守るためにその命をささげた殉教者を、聖人としています。誤解を解くために言いますと、聖人は父なる神様に取りつぎをお願いする崇敬する人のことであり、カトリック信者の方は彼らを数害しているわけではありません。また、聖人たるにふさわしいかどうかを長年にわたって調査審議し、尊者→福者→聖人というプロセスを取っていきます。日本で聖人とされた人たちは、全て殉教者であるという点が、他の国の聖人と異なっていることでしょう(参考:カトリック中央協議会HP)
 聖書には、イエス様を信じる人たちは皆、聖徒と書かれています。これは、神様の真実に基づく、神様からの召しによることです。聖人は後世の人が定めたことですが、聖徒は神様から出た者であるということができます。罪の中に死んでいたものを、イエスキリストの十かと復活のゆえに贖い、信じる者を聖徒としてくださったのです。これは人の功績によることではなく、一方的な神様からの働きによるのです。まさに、神様の恵みによることにほかなりません。パウロ自身がかつてはイエスや教会の迫害者であったにもかかわらず、このような身になったことを恵みとしてとらえていたのです。
 聖徒とは、イエスキリストとの交わりに入れられた人のことです。「コイノニア」と言う言葉が使われおり、他の人とのコイノニアに広がり、それは教会の交わりを指す言葉となっています。また、その教会の置かれた地域や国で、イエスキリストを証しすることが、教会の使命です。その意味では、教会の交わりそのものも、聖なるもといえるでしょう。
 新しい週を、私たちもキリストにあって聖なるものとされたことを新しく心に刻み、歩んでいきたいものです。

あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。1ペテロ215,16


2015年4月17日 (金)

虹と夕焼け

 15日水曜日は、はげしい夕立と雷でした。しかしそのあとは、大きな虹が現れ、西の空には夕焼けが見えました。虹と夕焼けは、再びイエス様の来られる日を思わせる光景で、感動でしたね。

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2015年4月13日 (月)

ブルガリヤと言えば・・・

 先週土曜日、11日の午後、一人の男性が二人の外国人を連れてこられた。アポなしの、教会訪問。男性は日本人で、国際交流のボランティをしておられるとのこと。一緒に来た人たちは男性はS大の2年生、女性は彼のお母さんで、初来日。息子が日本にいる間に来てみよう、ということで来られたのでしょう。とても若い方で、一瞬カップルと思ったほどでした。
 出身はブルガリヤとのこと。思わず「ブルガリヤと言えば、ヨーグルトと琴欧州関ですよね」と言ったところ「昨日、琴欧州関にあってきました」と言うではありませんか。三郷で地方巡業があり、琴欧州関ともう一人の力士と、お二人の写真を見せてくれました。
 これで心が通じ合い、お茶を差し上げ、会堂を案内し、お母様の着付けの手配までしてさし上げちゃいました。連れて来てくださった方は、Aブレーキをリタイヤされた方で、私との共通の知人がいて先方がビックリ!また、子供のころCSに行かれていたということで、「主の祈り」を何十年ぶりかで祈られました。
 帰り際、今日のお礼にと親子で賛美歌を歌ってくれました。もちろんブルガリヤ語の賛美で、イエス様が道を示してくださるという意味の曲でした。親子のハーモニーが、心地よかったですね。説教準備の時間は吹っ飛んでしまいましたが、和やかで素敵な時でした。お母様の名前が、マリヤさんというのも、良かったですね。

2015年4月11日 (土)

イエスの顕現 1コリント15:1‐11  2015.4.12

  女たちが週の初めの日朝早く墓につくと、そこは空になっていました。イエス様のご遺体を誰かが取っていったと彼女たちは思いました。しかし主イエス様は、よみがえれ、新しいからだをもってイエスを信じる者たちにその姿を現されました。はっきりとご自分を現したので、これをイエスの顕現と言います。
 その様子は、次の通りです。
 1.墓の外でマグダラのマリヤに現れる(マルコ16:9、ヨハネ20:11)
 2.墓に急ぐ女たちに現れる(マタイ28:8)
 3.エマオ途上で、二人の弟子たちに現れる(ルカ24:13-31)
 4.エルサレム(墓で?)で、ケパ(ペテロ)に現れる(ルカ24:341コリント15:5)  
 5.トマスを除く弟子たちに2階の広間で現れる(ルカ24:36、ヨハネ20:19)
 6.トマスを含む弟子たちに現れる(ヨハネ20:26)
 7.ガリラヤ湖で漁をしている弟子たちに現れる(ヨハネ21:1-14)
 8.山(ガリラヤの山、タボル山?)で弟子たちに現れ、世界宣教命令を授ける(マタイ28:16)
 9.500人以上の人たちに現れる(1コリント15:6)
 10
.兄弟のヤコブに現れる(1コリント15:7)11.オリーブ山に現れ、天に昇る(ルカ24:50、使徒1:12) 
 そして、最後にサウロ(パウロ)にもご自身を表してくださいました(1コリント15:8、使徒9:1-9)
 6節にある、500人以上の人たちに現れた、という証言は重要です。眠ってしまった人、すなわち、この手紙が書かれたときには死んでしまった人がいるが、まだ生きている人たちもいて、その人たちを生き証人として連れてくることができると言っているのです。多くの人たちがイエスの幻を見たのではなく、
時間や場所を変えて、実際イエスが蘇られてその姿を現されたのでした。
 パウロは、かつては教会の迫害者でした。8,9節の言い方は、そのことを恥じ、教会の人たちから排除されてもいいほど、小さな存在であるということを表しています。しかしそんなパウロが生かされ、伝道者とされたのは、彼の力によるのではありません。神様の恵み以外の、何ものでもないと言っているのです。これは、かつてイエス様を否んだケパ(ペテロ)に現れてくださったと、基本的には同じことでしょう。弱さのあるところにこそ、主の恵みがあるのです。
 復活の証人として私たちを立たせるのは、この神の恵みに他ならないのです。

 そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。 2テモテ2:1,2

 

2015年4月 5日 (日)

再びお会いできる日  マルコ16:1-8  2015.4.5

 イエス様の復活祭、おめでとうございます。この復活祭の日取りは、325年に行われた第1回ニケーア教会会議で決められたそうです。内容は、「春分の次の満月の後の最初の日曜日を、復活祭とする」というものです。今年でいえば、昨日4日土曜日が、春分の日を過ぎた最初の満月の日でしたね。
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ス様が十字架にかけられ、岩を横にくりぬいた墓に葬られる様子を見ていた女性たちは、ご遺体に香油を塗ろうとして、朝早く墓に出掛けました。墓についてみると、すでに入り口をふさいであった大きな石は取り除かれ、中にイエス様のご遺体はなく、白い衣を着た青年が座っていたというのです。彼は、神様から遣わされた主の天使でした。彼は女性たちに、「イエスはここにはいない、よみがえられた」と告げました。そして、イエス様の言葉として、イエスは弟子たちより先にガリラヤに行く、そこでお会いできると、ペテロや他の弟子たちに告げるよう命じたのでした。彼女たちはこの出来事にすっかり動転してし恐れてしまい、そこから保々の態で逃げ出してしまったのです。愛する者との別離は、大きな悲しみです。別離は私たちの心に、痛みや苦しみを与えることを、この出来事は伝えています。
 み使いは、十字架に付けられたイエス様が蘇り、再びお会いできることを告げたのです。これは素晴らしいことであり、希望を与える言葉です。しかしこの時、彼女たちはそれを理解できなった。主を信じる信仰の目が、まだ開かれていなかったのです。現代に生きる私たちにも、恐れや不安があります。やがて訪れる、自分の死とも向かい合わなくてはなりません。苦しみの場から、逃げ出したくなります。しかし十字架につけられた主は、よみがえられ、私たちの復活の初穂となられました。愛する者との再会が、ここに確かなものとされたのです。
 復活祭の日取りのもととなった春分の日は、日本では、春の彼岸と呼んでいます。先祖の墓参りをするのが通例となっています。私たちの教会では、復活祭の次の日曜日の午後、天に召された方を偲んで、礼拝をささげます。キリスト者のお彼岸のようなものです。先に召された方と再びお会いできる日を待ち望みつつ、新しい希望を持って生きる日となるのです。
 ペテロや弟子たちは、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。自分たちの人生は、イエス様の死と共に終わったと考えたのです。しかしガリラヤで主イエス様と出会った弟子たちは、新しくされ、そこから彼らの人生を再スタートさせたのです。文字通り、敗者復活戦を始めることができたのです。私たちも、心のガリラヤで主と出会い、復活の主とともなる生涯を、送っていきたいものです。

  主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。ローマ4:25

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