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2015年5月

2015年5月31日 (日)

神のみこころを悟る 1コリント2:6-16 2015.5.31

   キリスト者は、2重国籍者です。神様によって生まれた神の国に属する者であるとともに、肉の誕生によっておかれた国の人間でもあるのです。どちらを優先するか、これが面白いところですね。神の御子の愛の中、つまり神の国の国民でありながら、・・国人であるということです。 
 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に
 移してくださいました。(コロサイ1:13) 
 そのような中で、神様の願い、御心を知るということは自分がこれからどのように生きていくのか、神様の喜ばれる生涯を送るために必要なことです。コリント人への手紙では、「神の御心のことは、神の聖霊のほかには誰も知りません」と書かれています。
 地中海世界を旅してコリントまでやってきたパウロは、人間の知恵のことばに基づく伝道ではなく、人々には愚かと見えるようなイエスキリストの十字架を愚直に宣べ伝えることが伝道であり、人の知恵のことばではなく、十字架のことばこそが人を救い生かすものであるとの確信を持っていました。人間の知恵がたといどのように優れていても、神のみこころを十分に知ることはできないのです。静まって聖書を読み、そこから深く心に刻まれることを黙想し、聖書にしるされているイエス様や他の人物と心の中で対話する、そうすることで神様の心を知ることができるようになるのです。その時聖書を読んでいる人は、キリストの心を持っているといえるでしょう。神様のみこころを悟るために、神様に願い求めていけばよいのです。

 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげ なく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ヤコブ1:5

 

 

2015年5月24日 (日)

キリストとこの街にある教会 使徒2:37-47 2015.5.24

本日は、聖霊降臨日、教会が誕生したことを記念する日です。その様子は、使徒1-2章に書かれています。
 イエス様が復活され、それから50日目の五旬節の祭の時、主が語られた通りに祈っていた弟子たちに聖霊が降り、彼らはいろいろな国のことばで語りだしました。たぶん、神様を賛美し主のことばを語ったのでしょう。祭りのために来ていた人たちは一様に驚き、怪しみました。しかし彼らは、ペテロの語った言葉に心を差され、悔い改めて洗礼を受け、彼らもイエス様を信じる者となったのです。ここには教会と言う言葉は使われていませんが、イエス様を信じる者の集まりである教会が誕生したのです。
 この教会の様子は、41節から47節に記されています。私たちの教会では、ここから7つのポイントでキリスト者生活の秘訣として学んでいます。それは、
①救いの確信は聖書にあること、②信じた人たちは信仰の告白としての水の洗礼を受けたこと、③教会の交わりに加えられたキリストの弟子としての生活を始めたこと、その人たちは④聖書を学び、⑤祈りをしていたこと、⑥そして財産をささげてお互いに助け合い、このようなことを通して⑦神様が日々救われる人を起こしてくださったことです。このことは、今の私たちの個人生活や、教会にも当てはまることです。
 ペテロは、「この曲がった時代から救われなさい」と言いました。今日では、その曲がり方はひどいものがあると思います。神様の造られた人としての尊厳が傷つけられ、まことの神様を第一とする道から、大きくずれているのではないでしょうか。聖書の示す罪とは的外れであるという意味からすれば、まさに今もなお私たちは曲がってしまい、罪の中にあるといえます。
 このエルサレムに生まれた教会の姿を一言でいえば、キリストと教会に根差した教会であるということです。聖霊によって導かれた教会は、キリストに根差してそのいのちをいただくのです。また教会は、その置かれた街や地域から遊離したり、無関係でいることはできません。神に仕えるとは、実際にはその町の人たちの隣人となり、力になるということです。キリスト者個人の生活も同様です。信じただけで、街や職場の人たちと何のかかわり持たず、ただ教会に集っているだけでは、健全な姿とは言えません。
 人は誕生日を迎えると自らの人生を省みて新しい歩みをするように、教会の誕生日ともいえるこの日に、復活の証人としての新しい歩みを進めたいと思うのです。

こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。使徒9:31


2015年5月16日 (土)

十字架のことば  1コリント1:16-25  2015.5.17

パウロは、復活の主に出会ってから伝道者に変えられ、福音を当時の地中海世界の人たちに伝えた人物です。かつては迫害者であったため、使徒の中では最も小さいものであるとの自覚のもと、誰よりも多く労苦した人です。今日の私たちから見ると偉大な伝道者、牧師であり、聖人パウロ、セイントポールとも呼ばれるほどです。
 そんな偉大な伝道者でしたが、アテネからコリントに来た時は、弱く恐れおののいていたのです。アテネでは今日でも異邦人への説教の模範となるようなお話をしたのですが、彼が思ったような伝道の成果はなかったのです。コリントに来た時の彼の決心は、人々が聞いてくれるような立派な知的な言葉ではなく、ただイエスキリストの十字架だけを宣べ伝えるということでした。十字架のことばこそが、人を救い、その人に新しい希望に満ちた人生を歩む力を与えると確信したからです。
 十字架のことばとは、イエスキリストが十字架にかけられて死んで葬られたという歴史の事実と、その意味を表す言い方です。このことは、人の救いは人間が考えた英知によることではなく、神の真実に基づくことである、ということと同じです。私たちが自分の姿を見て絶望し、神様のみを信頼するものになったという告白でもあるのです。キリスト者になるとは自分の決心に基づいているように思うのですが、実は神様から出たことなのです。
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」ヨハネ15:16 
 教会の暦では、本日はイエス様の昇天を記念する主日となっています。来週は、聖霊が降って弟子たちに宿り、教会が生まれたことを記念する聖霊降臨日です。十字架だけでなく、復活、昇天、そして再臨まで含めてこれが福音だ!と言われると、人々はどう思うでしょうか。愚か者を通り越して、気違い扱いされてしまうでしょう。十字架の言葉を信じるのは、まさに聖霊の働きによるです。
 人の思いを越えて働かれる聖霊のお働きを待ち望みつつ、この一週間を過ごしてまいりましょう。人を生かすのは、人間のことばではなく、十字架のことばであることを心に留め乍ら。

 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。ヨハネ16:13

 

2015年5月10日 (日)

からだに聞く

 本日は中央会堂での説教です。内容は、3日とほぼ同じなので、そちらをご覧ください。
 皆さんは、頭の言うことと、からだの言うことのどちらに聞いていますか?
 先週月曜日、5月4日は大凧マラソンでした。今回もハーフに挑戦し、完走いたしました。残り2キロは、歩いているような速度でしたがとにかく腕を振り、地面に足がつかない状態を何とか作り出し(ているつもり)、歩かないでゴールしようと努力したのですが、バテバテでした。ゴール後、足のマッサージをしてもらい駅へと歩きました。途中お店があったので、昼食を購入しました。1時を回り、おなかも空いている、走った後だからエネルギーを補充しなくてはいけない、という頭の声に聞いて、店内を見回し、リンゴと完熟トマトを購入しました。そして旨そうで活力がつきそうなカツどん弁当を購入、ベンチに座って一口いただきました。
 ところが! 思わず気持ちが悪くなり、途端にお腹もいたくなってきました。汚い話ですみませんが、買ったものをバッグに詰めて駅に向かい、トイレに直行。何とか電車に乗って東岩槻に着いたところで、再びトイレ。歩く力もなく、駅前のタクシーで丘の上教会まで、戻ってきました。かなりのダメージですね。
 家でほっと一息ついたところ、「おかゆが食べたいよう~」というからだの声が聞こえ、家内に卵とじおかゆを作ってもらいました。それを食べてやっと、おなかも落ち着いてきたのです。 

 これは貴重なレッスンですね。頭は、走った後だから栄養補給ということでかつ丼を欲したのですが、からだは、走った後で疲れているから水かおかゆだろ!と言っていたのです。この場合、からだの声に聞くことが大切です。これを無視して、頭の言うことを聞こうとすると、きっとからだ全体にいろいろな不都合をきたすのでしょう。時には、自分のからだに聞くことを、心がけたいですね。
 くだんのカツどん弁当は家内のお腹に収まりました。また、日を改めてカツどんをいただきたいと思います。僕の体がかつ丼を欲していたら、ですよ。

2015年5月 3日 (日)

キリストにあって一つ 1コリント1:10-17  2015.5.3

教会とは、イエス様を救い主と信じ、救われた人たちの集まりです。
 エルサレムで生まれた教会は、それからおよそ2000年の時の流れの中で、様々な形でその営みを続けています。建物がなくても、厳しい迫害の中でも、イエス様を礼拝し、ともに交わりを持っている人たちもあるのです。教会は神様が生み出してくださったものなので、キリストにあって一つなのです。具体的には、イエス様の教えてくださった主の祈りを祈り、使徒信条にある信仰を告白していることによって、一つであることを知ることができます。
 しかし、教会を構成しているのは信者ですが、完全な人であるというわけではありません。いろいろな問題を抱えているのです。コリント教会の問題でまずパウロが指摘しているのは、ペテロやアポロなど個人を霊的な指導者と仰ぐ人たちが作るグループ間の争い、すなわち、分派や対立の問題でした。コリントの教会には、パウロを支持する人たちもいたようです。しかしパウロはあえて自分が洗礼を授けたのは本当にわずかな人達であって、指導者うんぬんで争うのではなく、お互いに一致してくれることを願っています。
 教会が一つであるということのイメージは、まず体を思い浮かべると良いでしょう。一つの体を切り刻むようにして分けることができないように、キリストも分けることができないのです。また教会が一つであるとは、羊飼いによって導かれる羊の群れが一つにまとまっているイメージにもたとえられます。旧約の時代から、神様は羊飼いであり、人々はその牧場の羊だったのです。そして何よりも、私たちの信じる神様が、3つの人格(ペルソナ)を持ちながらも、互いに調和した交わりを持っており、お一人であるということです。神様のイメージは、教会が一つであることを良く表しているといえないでしょうか。これはまさに神秘ですね。人の考えでは、及びもつかないことでしょう。
 目に見える教会には、仲たがいをしてしまうようなことが起きるでしょう。気の合わない人も、いるかもしれません。しかし教会はもともと一つであること、そしてキリストの平和を求めるために一つとされていることを、心に留めていただきたいのです。

謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。エペソ4:2,3


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