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2015年6月

2015年6月28日 (日)

イエス様を信じる 信仰のはじめの一歩 1015.6.28

私がイエス様を信じたのは、当時出席していた高田聖書教会の塚田先生からの信仰の促しに応答したときでした。高校3年生で、年が明けた1月最初の聖日のことです。礼拝の後、横に座られた(床は畳の、日本家屋が教会となっていた)塚田先生とのやり取りは、実に単純でした。

「山田君、聖書を読んでいる?」→ちょうど1週間かけて新約聖書を全部読んだ次の日だったので「はい」と答えました。

「お祈りしている?」→受験生でしたので、志望大学に入れるようお祈りしていたので「はい」と答えました。

「イエス様を信じる?」→ちょうどこの日は、聖餐式でした。自分は聖餐をもちろん受けなかったのですが、イエス様に自分の人生を掛けていきたい、となぜか思わされていたので「はい」と答えました。

「ではお祈りしましょう」という声に促されて、イエス様を信じる祈りを導いていただいたのです。

その後、聖書の学びを少ししたところで、見事祈りが聞かれて()志望校に合格でき、この春日部教会を紹介されて、現在に至っているわけです。

私の場合は、信仰箇条を学んで教理を理解してから信じたのではなく、あるいは、キリスト教の講座を受けてしっかり勉強してから、イエス様を信じたのではありませんでした。また「はい、信じます」と言った時も、どの程度イエス様についてわかっていたのか、まことに心もとないものがあります。しかし、神様の促しによって信じることが私の信仰生活のはじめの一歩となりました。春日部に導かれてから、礼拝後に持たれていた学生会の集まりで、聖書の教理を学びました。そして20歳になった時、もう一度私の罪のために主イエスが十字架にかかり死なれてよみがえり、天に昇られたことを改めて深く心に刻まされ、信仰がリニューアルされたました。

イエス様をただ信じる、そこから私の歩みが始まったのです。

「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ10:10)

2015年6月20日 (土)

神の奥義の管理人 1コリント4:1-5 2015.6.21

 本日は、父の日です。家庭に両親がいる場合、父親がその家庭を経済的も精神的に支えるのが、普通の姿だと思います。そこには、神様の造られた家庭の秩序が、反映されています。
 パウロは自分のような使徒たちを、キリストのしもべ、神の奥義の管理人であると言っています。しかしこれは、全てのキリスト者に言えることです。ここで使われているしもべとという言葉は、元々船底で奴隷としてオールを漕いでいる人たちのことで、そこから奉仕一般を指す言葉となりました。また、管理人とは、大きな農園の管理を任されている人のことを表すそうで、ある物の管理をオーナーからゆだねられた人を意味します。
 天地創造の時、神様はご自分の造られた世界、すなわち被造物の世界の管理を、人間にゆだねました。


  神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:28)


人は生き物に名前をつけますが、それも被造物の管理を任されたことの表れです。
 管理人は、オーナーに対して忠実でなくてはなりません。実際の仕事は部下やしもべに任せたとしても、管理していることに関しては、責任を持っています。しかし罪を犯した人間は、この管理を正しく行うことができなくなりました。人間の欲望の都合のいいように自然を支配するようになったため、おかしなことが生じてきました。それが自然界のうめきです。時に、自然災害として人間に襲い掛かってきます。


そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。(ローマ8:23)


 この被造物の苦しみが解消されるのは、人として来られたイエスキリストの十字架と復活という、人々の贖いのためのみわざです。福音とは、イエス様を信じて天国に行けるようという喜びのたよりです。天国に入れる日をただ待っているだけでは、神の奥義の管理人とは言えません。神の奥義は福音のことであり、それはそれぞれの国や地域の歴史の中に表される神の御業、また各教会の教えとして花開いていく、豊かな世界です。神様の造られた自然の秩序を破壊するのではなく、共に生きること、また、それぞれの国や地域にある文化や歴史を大切にしつつくらすことが、忠実な管理人の務めです。そして神様の御心を行うことが、しもべの姿です。
 忠実な管理人でなくなってしまった私たちは、ここで悔い改め、まことの父である神様に立ち返って、忠実な管理人にならなくてはいけません。
 かつて、大勢の群集がお腹を空かせていたとき、イエス様は五つのパンと二匹の魚を祝福して分け、彼らの空腹を満たしました。イエス様こそが、命のパンであることを表す奇跡だったのです。パンと魚を差し出す少年がいたので、このような奇跡が起きたのです。私たちが管理人として預けられているものを主イエス様に差し出す時、神様はその信仰を祝福し、ご自身の栄光のために用いてくださるのです。


 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。(1ペテロ4:10)

2015年6月13日 (土)

福音にふさわしく ピリピ1:27-30  2015.6.14

 NHKのテレビ番組「LIFE!~人生に捧げるコント~」という番組があります。きついことばでも笑いながら、「そうだよな~!」と思わず共感してしまう、面白いコント番組です。
 時代の変化と共に、私たちの生活様式、ライフスタイルは変わってきました。同時代でも、年代や地域によって、かなり異なるライフスタイルというものがあると思います。信仰生活、いわゆるクリスチャンライフも、その時代や年代の影響を受けて変わってきています。しかし変わることの無い、聖書から教えられることがあるでしょう。
 ピリピの教会の人たちを思いやりながら、獄中からしたためたパウロの書簡には「キリストの福音にふさわしく生活しなさい」と、明確に信仰生活の基本が示されています。27節と18節にかけて、そのことを表す3つの動詞が使われています。それは、霊を一つにして立つこと、心を一つにして奮闘すること、そして反対者たちに驚かされることがない、ということです。一言でいえば、自立した信仰者である、ということです。
 しかしイエス様を信じた者は、毎日が順風満帆で、何の苦労もないということではありません。福音は、イエスキリストの物語であり、イエス様が受けられたように、キリスト者は苦しみを受けることがあるのです。それは、キリストのための苦しみを賜ることなのです。イエス様が受けられた最も大きな苦しみは十字架の刑ですが、捕えられる前のゲッセマネにおけるイエス様の姿も、壮絶な苦しみを表しています。弟子たちと過ごした過ぎ越しの食事ののち、真っ暗なゲッセマネの園に行かれました。ユダは裏切って自分を捨て、やがてお供をしているペテロたちも自分を見捨ててしまう。十字架と復活の後、教会が誕生しますが、教会の信者たちの行く末を思って苦しまれたことでしょう。あまりの悲しみのゆえに、汗が血潮のようにしたたり落ちたのです。イエス様は、このような苦しみの場面から、逃げ出すことはありませんでした。苦しみにあった時、その中にとどまることが、実は勝利に続いていくのです。
 苦しみの中でのイエス様の祈りは、自分の思いに従うのではなく、父なる神様の御心に従うことができますように、というものでした。またこう言われた。

「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」マルコ14:36
 これこそが、私たちにも必要な心の姿です。福音にふさわしく生きる者の、姿なのです。み使いが、イエス様を励ましたと、聖書は語っています。このような思いを持つものを、今でも神様は強めてくださって、苦難の場所から立つことができるようにしてくださるのです。キリストイエスの心を私たちの心とする、それが福音にふさわしく生きる者の、秘めたる姿です。
 
いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。1コリント2:16

2015年6月 7日 (日)

賢い建築家のように 1コリント3:10-17  2015.6.7

   天幕造りをしながら伝道していたパウロは、教会を建物に例え、かしこい建築家のように伝道してきたと語っています。ちゃんとした建物が出来上がるためには、確かに賢い建築家が必要です。今日の日本では、資格を持った建築士が設計図を引き、工事の管理監督を持つことになっています。
 建築において土台をしっかりと据えることが大切であることは、いうまでもありません。教会の建設や、私たちの人生にとっても大切なことでしょう。教会の土台は、イエスをキリストと告白する信仰です。
「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18) 
 またイエス様は山上の説教のまとめで、愚かな人と賢い人のたとえ話を通して、人生の土台の大切さを語りました。
「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。」(マタイ7:24,25)と言われた通りです。
 そしてキリスト者生活の土台は、デボーションを守ることによって、確かなものとされていくのです。
 土台の上に建てるのが建築物の本体ですが、どのような材料を使うのかということが、重要です。ここでは、建てられたものが火によって試される日が来るとあります。神様の試み、テストを受けても、朽ちないものであるかどうかがポイントです。確かに木や草や藁は燃えてしまいますが、日本文化の中にあっては、建築の材料としては悪くありません。むしろ、金銀宝石や石よりも、いい感じがします。ここでのポイントは、教会や私たちの人生が、神様の前におぼえられるものであるかどうか、ということです。北海道新幹線の開通に伴って、そこで働いてきた人を紹介する番組がありました。その中で青函トンネルの工事にかかわった方の「地図に残る仕事をしたかった」と言われた言葉が、印象的でした。神様の前に残る教会、そして自分の人生でありたいですね。
 パウロはここで、キリスト者そのものが、神殿であると言っています。神殿は、神のいるところを象徴しています。私たちのからだは、聖霊の宮であり、神様が住んでいていくださる所といえます。
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」(1コリント6:19)
 それゆえ、私たちの生身のからだをもって、神様の栄光を表す行動、言葉を使うのです。
 最後に、確かに建築家が必要ですが、その人たちだけでは建物は建ちません。現場で働く人たちがいなければ、図面上の建物に終わってしまいます。いろいろな技術を持った人たちが、それぞれの働きを秩序だってすることによって、建造物が完成します。教会も、それを構成する全ての信者が賜物のはかりに応じて奉仕することによって、建てあげられていくのです。
 あなたが教会にいるのは、その働きをになう素晴らしい機会がそこにあるからです。

2015年6月 1日 (月)

コチドリ

 野鳥の会のNさんに案内していただき、今朝は岩槻区にある、車検場や川通りグランド近くに行ってきました。お目当ては、コチドリとコアジサシ。草の茂みがあり、砂利と小石の混ざった地面にいました。最初は、石と同じような色をしているので、なかなかわかりませんでしたが、次第に目が慣れてくると、見分けが付くようになりました。

 コチドリがこちらの方に意外と近くまで寄ってきました。安心しているのではなく、Nさんによれば、むしろ警戒しているとのこと。そうかもしれませんね。葦の茂みからは、ケーンとキジの泣き声や、子供のころ良く聞こえていた、ヨシキリの鳴き声が聞こえていました。少し移動すると、田んぼには、アオサギ、チュウサギの姿が見えました。キジも、良く出てくるそうです。
 コチドリは、目の周りが黄色なのが特徴です。人間の歩き方に使う「千鳥足」は、この鳥の歩き方から来たようですね。
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