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2015年8月

2015年8月30日 (日)

健全なからだとは 1コリント6:12-20 2015.8.30

 自分も家族も健康で長生きしたい、とはだれでもが願うことでしょう。健康維持やその増進のために、器具やサプリメントのCMは洪水のように溢れています。

WHO憲章では、その前文の中で「健康」について、次のように定義しています。

Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)

コリントの教会の中には、健全な生活を送っていないキリスト者がいました。これまでパウロが述べてきたように、分裂や仲たがいがあり、未信者に訴えごとを出すようなことまで起きていました。そしてこの6章では、もう一度不品行があることを取り上げています。そして7章では、結婚、離婚という最も大切な夫婦の問題を取り上げます。はたして健全なキリスト者生活とは、どのようなものなのでしょうか。鍵になる言葉は、19,20節です。
 「
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」
 ひらがなでからだと書いてある言葉は、人間の肉体(身体)のことだけではなく、魂(精神、心)や霊という見えない部分を含む人間存在全体を表す言葉です。「健全な精神は健全な肉体に宿る」という格言は、身体が健康であれば、おのずから精神も健全である、という意味で使われています。しかし元々の意味は、「大欲を抱かず、健康な身体に健全な精神が宿るように望むべきだ」ということらしいです(デジタル大辞典)
 健康であるとか、健全なからだとは、何でしょうか。それは神様のことばを心に宿し、そのみ言葉が生活の指針となっていることです。日曜日まで行われていた世界陸上で、アリソンフェリックス選手は、女子400メートルで優勝し、9つ目の金メダルを獲得しました。他の選手を寄せ付けない、圧巻の走りでした。前回大会でのアクシデントを乗り越えての優勝は、価値あるものでした。彼女はクリスチャンの家庭に生まれ育ち、ロンドンオリンピックのパンフレットに、このように自分の証しを書いています。「私は、イエス様を知る事のない人生を想像することが出来ません。私は、ただ起きて、イエス様無しに人生を生き抜く事は想像出来ません。ですから、イエス様は私のいのちであり、そのために私は生きています。」(More than Gold2012より)
 どのような境遇に置かれていても、また身体に弱さやハンディを持っていても、私たちの人生を導く灯であるみ言葉を宿している人こそ、健全な人といえるでしょう。
 「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」コロサイ3:16


2015年8月23日 (日)

しかしあなた方は新しくされた 1コリント6:1‐11 2015.8.23

         

 

 人間を3種類に分けている面白い箇所があります。パウロが記している、コリント人への手紙13章に、このように書かれています。
「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」
 ただの人とは、キリストを信じていない人のことです。御霊に属する人とは、キリストを信じ、聖霊によって導かれた日々を送っている人のことです。では、肉に属する人とはどんな人のことか?キリストを信じていても、まるで未信者のようにふるまっている人のことで、そこには妬みや争いがあるというのです。
 コリントの教会にも、不品行や金銭をめぐって争い事がありました。その解決のために、未信者にその調停を頼んだようでした。かつてパウロも自分の身の潔白を建てるために、カイザルの法廷に上訴したことがありました(使徒25:11)
 ここで取り上げているのは、もめ事をキリスト者の交わりや教会の中で解決することをせず、それらを飛び越えて未信者に問題を訴えていることが間違っている、ということでした。真の裁き主は、まことの神であるイエス様であり、そもそも訴え会うこと自体が敗北である、というのです。イエス様が苦しみを受けられたように、不正をも甘んじて受けることがどうしてできないのか、とパウロは嘆いているのです。
 不正を許してよいというのではありません。ここに新しい生き方があるのです。11節の後半は直訳すれば「しかしあなた方は洗われた、しかしあなた方はきよめられた、しかしあなた方は義とされた、イエスのみ名のゆえに、神の霊のゆえに」となります。三位一体なる神様が、イエスを信じる者を新しく造り変えてくれた、というのです。このような自分の新しい身分から争い事取り上げれば、もっと違った道が見えてくるのではないか、というのがパウロの真意でしょう。
 何かをする前に、自分はどのようなものとされたのか、キリストにある者は新しくつくりかえられた者であることをわきまえる時、この世の人とは違う生き方が生まれてくるのです。
  「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い

ものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」2コリント5:17


2015年8月14日 (金)

荒廃からの70年 エレミヤ25:8-14 2015.8.16

今年は、戦後70年の節目の年であるということで、これにちなんだ式典があり、ドキュメンタリー番組などが放送されています。1930年代から始まった軍部の台頭によって引き起こされた無謀な戦争を思い起こし、敗戦によってしか得られなかった貴重な学びを受け継いでいくときであると思います。
 この70という数は、聖書にもある特別な期間を表すものです。それは、ユダの国の人たちがバビロニア帝国の侵略を受け、約1000キロも離れた国に連れていかれていかれた期間を示す数字です。70年間に及ぶ、バビロン捕囚という出来事です。バビロン捕囚は3度あったと言われていますが、一番激しかったのがBC586年のゼデキヤ王の時代で、神殿が破壊されたことでした。権勢を誇ったバビロニア帝国はペルシャ帝国に滅ぼされ、クロス王の時に帰還が許され、BC516年に神殿は再建されました。この間の70年の出来事を預言したのがエレミヤでした。
 「この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民、──【主】の御告げ──またカルデヤ人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。」(エレミヤ25:11,12
 このような苦しみを味わわなければならなかったのは、ユダの王がバビロニアの王に服従するよりもエジプトの王を頼りとしたことが原因でした。しかしその根本的なことは、時の王が神の律法を顧みなかったこと、神様のことばに聞き従わなかったことです。エレミヤは涙の預言者と言われています。彼のことばは、国に思う愛の心、あわれみの心から出ている言葉でした。イエス様も生涯の最後の時エルサレムに上られるとき、涙されました。エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われたです。
 「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」(ルカ19:41-44)
 日本の70年は、戦争で荒廃してしまった国が復興した70年です。その初めに、この国の新しい道を示す憲法が定められ、施行されたことは真に幸いなことでした。70年間の平和と復興を支えてきたのです。国連に加盟し、世界の中で孤立することもなくなり、どの国とも仲良くしようということを表明したのです。この70年が再び「戦前」となることがないように、まず神様のことばに聞き従い、平和を作りだす者として歩んでいく祈りを、新たにささげたいのです。
ローマ11:22 
見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。


2015年8月10日 (月)

今年も丘の上でお茶会を

今年も、丘の上でチャリティーのお茶会が開かれます。10月31日ということで、名残の茶会となりますね。

皆様のお越しを、お待ちしております。お問い合わせは、このページでも承ります。
チラシはここから→「18.pdf」をダウンロード

第18回丘の上チャリティー茶会

今年も、丘の上でチャリティーのお茶会が開かれます。10月31日ということで、名残の茶会となりますね。

皆様のお越しを、お待ちしております。お問い合わせは、このページでも承ります。
チラシはここから→「18.pdf」をダウンロード

2015年8月 9日 (日)

敗戦後70年目の敗戦記念礼拝 2015.8.9

本日は合同礼拝となり、山口陽一先生が、説教を取りついでくださいました。

 
当教会に社会委員会が誕生したのは、1982年度でした。それ以来、敗戦記念礼拝をはじめ、平和ツアー、国家のために祈る会が始められ、ヤスクニ問題、教科書問題、キリスト者の抵抗権など、今日まで続く学びがあり、沖縄、広島、そして長崎を訪れました。また、暑い中、丘の上まで平和を訴えて歩いたこともありました。
 今年は敗戦後70年(世間では戦後70年)にあたり、一つの節目の年として捉えることができます。それぞれの年に厳しい課題がありましたが、70年間、私たちの国が戦場となることがなく、他の国の人を戦争によって殺すこともなかったのです。しかし、今の時ほど私たちの国が戦争を引き起こす道に進んでいるのではないか、大きな戦いに巻き込まれるのではないか、ということを強く感じさせることはなかったのではないでしょうか。閣議決定の名の下になされた集団的自衛権の容認という憲法解釈の変更(2014年7月)、特定秘密保護法の成立(2014年12月10日に施行)、そして「やはり憲法を変えなくては、だめだよね」というような声。
 これらは、再び武器を取る時代になるしるし(・・・)のように感じるのです。 聖書の中で、40年は荒野の旅を示す言葉です。70年は、神様の裁きの時を示す言葉でしょう。「七十年がたつと、主はツロを顧みられるので、彼女は再び遊女の報酬を得、地のすべての王国と地上で淫行を行う」(イザヤ23:17)「七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民、─主の御告げ─またカルデヤ人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。」(エレミヤ25:12)。しかしこれは民の断罪のメッセージではなく、悔い改めて神に立ち返ることを呼びかける、愛のメッセージでした。 敗戦後の70年間は、神様のあわれみと日本人の懸命な努力によって国を回復し、平和を求めてきたときだったと思います。
 その最初に、日本国憲法が公布、施行されました。押し付けられたというのではなく、私たちの国は、敗戦によってしかこのような憲法を手に入れることができなかったのです。神様からもう一つのメッセージとして与えられた、ということができるでしょう。主に従う砕かれた心を持ち、平和を作る営みと一人一人を大切にする思いを表していく、節目の年としたいと願います。
  平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。 マタイ5:9

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