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2015年9月20日 (日)

愛は徳を建てる 1コリント8:1-13 2015.9.20

本日は、日本の暦でいうと秋の彼岸の入りです。中日にあたる23日は秋分の日であり、『祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ日』となっています。この思いはキリスト者も同じですが、その表現の仕方が違うかもしれません。キリスト教から見ると、偶像礼拝の問題がかかわってくるからです。
 本日の箇所は、コリントの教会が抱えていた、神殿に供えた肉を食べても良いのか悪いのか、そのようなことにどう対処したらいいのかについてのパウロの考えを述べたところです。もちろん、パウロ個人の考えということではなく、霊感された聖書に書かれていることですから、神様のメッセージがそこにあるととらえることができます。
 13節には、知識よりも愛が勝ることを明確に述べています。人の知恵や知識は、神様を越えることはないのです。46節には、そもそも世の偶像の神は存在しないことを明確にしています。そして713節で、そのようなものに備えた肉のおさがりを食べても、衛生上の問題は別として、それが人を汚すことにならないので食べても大丈夫と、ということを語っています。しかしながら、その行為が信仰の弱い人をつまずかせるようなことになれば、私は食べない、とパウロは言うのです。ここに、知識よりも愛が勝るのであり、愛が徳を建てるという実際の行動に導くことを示します。ここでいう愛とは、11節にあるように、すべての人のために死んでくださった、イエスキリストの愛です。「
キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです」。この文脈は、信仰の弱い人を気遣うことを語っています。
 では未信者が多く、キリスト教の背景のないこの国にいる私たちには、これをどのように当てはめたらいいのでしょうか。基本的は、同じことです。キリスト者がある行為を、これは偶像礼拝にあたるからしない、ということをもう一度吟味してみる必要があるのです。その行為の意味を正しく知っているでしょうか(知識)、またその行為は未信者のつまずきやキリスト信仰を誤解するようなものではないでしょうか(徳を建てる)、独りよがりではないでしょうか。仏式の葬儀はけがれるから参加しないとか、クリスチャンになったのでもう仏壇はいらないから焼いてしまえ、などと言うのはかなりおかしなことでしょう。かえって人々のつまずきどころか、反感を与えてしまいます。
 お彼岸という言葉を使うにせよ使わないにせよ、先祖に感謝し、なくなった人を偲ぶことは、主の喜ばれることでしょう。偶像を礼拝することをせずに、神様の愛に導かれて、その思いを表す仕方があるはずです。

「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。」Ⅱコリント5:14

 

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