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2015年9月

2015年9月27日 (日)

正徳元年と慶応4年

日本人の心の中に、あるいは精神の中に、キリスト教を邪教とする、あるいは「とにかくキリスト教はダメなのだ」という思いがあります。もちろん、キリスト教は良い宗教である、教育や社会の中で、すばらしい働きをした、という評価もあることでしょう。しかし江戸時代はキリスト教禁制の時代であり、理屈ではなくキリスト教を嫌う思いが作られていった歴史があるのです。それを象徴する、2枚の高札があります。一つは、正徳元年(1711)に出された定め。新井白石が日本潜伏最後の宣教師と言われた、シドッチを取り調べた時代です。宣教師やキリスト信者を見つけた時のご褒美は、銀貨500枚、300枚という最高の報奨金になったのです。もう一つは、慶応4(1868)、すなわち明治元年であり、江戸幕府が倒れて明治政府になった時代です。太政官の名によって書かれていこの高札は、新しい時代になってもキリスト教は今まで通りご禁制の教えである、ということが改めて周知されたことを示しています。このキリシタン禁制の高札は、明治6(1873)になるまで、全国津々浦々に建てられていたのです。このことは、今の私たちに何を語っているのでしょうか。そのことは、しばらくこの2枚の高札を眺め、もう少し後に記したいと思います。

 

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Keio4nen

高札を見て 2015.9.27

礼拝説教は、先週と同じです。 

本日のブログをご覧ください。

2015年9月20日 (日)

愛は徳を建てる 1コリント8:1-13 2015.9.20

本日は、日本の暦でいうと秋の彼岸の入りです。中日にあたる23日は秋分の日であり、『祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ日』となっています。この思いはキリスト者も同じですが、その表現の仕方が違うかもしれません。キリスト教から見ると、偶像礼拝の問題がかかわってくるからです。
 本日の箇所は、コリントの教会が抱えていた、神殿に供えた肉を食べても良いのか悪いのか、そのようなことにどう対処したらいいのかについてのパウロの考えを述べたところです。もちろん、パウロ個人の考えということではなく、霊感された聖書に書かれていることですから、神様のメッセージがそこにあるととらえることができます。
 13節には、知識よりも愛が勝ることを明確に述べています。人の知恵や知識は、神様を越えることはないのです。46節には、そもそも世の偶像の神は存在しないことを明確にしています。そして713節で、そのようなものに備えた肉のおさがりを食べても、衛生上の問題は別として、それが人を汚すことにならないので食べても大丈夫と、ということを語っています。しかしながら、その行為が信仰の弱い人をつまずかせるようなことになれば、私は食べない、とパウロは言うのです。ここに、知識よりも愛が勝るのであり、愛が徳を建てるという実際の行動に導くことを示します。ここでいう愛とは、11節にあるように、すべての人のために死んでくださった、イエスキリストの愛です。「
キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです」。この文脈は、信仰の弱い人を気遣うことを語っています。
 では未信者が多く、キリスト教の背景のないこの国にいる私たちには、これをどのように当てはめたらいいのでしょうか。基本的は、同じことです。キリスト者がある行為を、これは偶像礼拝にあたるからしない、ということをもう一度吟味してみる必要があるのです。その行為の意味を正しく知っているでしょうか(知識)、またその行為は未信者のつまずきやキリスト信仰を誤解するようなものではないでしょうか(徳を建てる)、独りよがりではないでしょうか。仏式の葬儀はけがれるから参加しないとか、クリスチャンになったのでもう仏壇はいらないから焼いてしまえ、などと言うのはかなりおかしなことでしょう。かえって人々のつまずきどころか、反感を与えてしまいます。
 お彼岸という言葉を使うにせよ使わないにせよ、先祖に感謝し、なくなった人を偲ぶことは、主の喜ばれることでしょう。偶像を礼拝することをせずに、神様の愛に導かれて、その思いを表す仕方があるはずです。

「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。」Ⅱコリント5:14

 

2015年9月 6日 (日)

主の召しに応える 1コリント7:17-24  2015.9.6

この7章は、コリントの人たちが持っていた疑問や質問にパウロが答えるという形で書かれています(7:1)
 1-7には、結婚は不品行を避けるためにも良いことであること、8-16には、未亡人や未信者の配偶者を持つ夫婦への勧め、17-24には、割礼や奴隷の身分をどのように考えるかについて、25-38には、独身であることと未婚の娘を持つ親への勧め、そして39,40には、再婚について書かれています。
 本日の説教箇所は、17-24です。この中で鍵となるのは「召された時のままでいなさい」という言葉です(17,20,24)。そして、割礼と奴隷の身分が取り上げられています。割礼は、ユダヤ人男性が生殖器に受けている手術でした。パウロの時代になると、教会にはユダヤ人だけでなく、割礼を受けていない異邦人も加わっていました。救いはユダヤ人だけのものではなく、古い律法にとらわれずイエス様を信じる信仰によるものであるということから、割礼を受けた人たちの方がなんとなく肩身の狭い思いをするようになったかもしれません。それで割礼の跡を消す人たちが、あらわれたようです。しかし
「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:6というみ言葉を思い起こさなくてはなりません。
 また、奴隷という言葉はしもべとも訳されている言葉です。パウロは自由人でしたが、イエス様のしもべ、奴隷だったのです。
「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」(ローマ5:1)
 ここで大切なのは、このように私たちを召してくださったのは、イエスキリストによる贖いの御業に基づいているということです。十字架の死と復活により、人は罪から救われ、新しい人とされたのです。
 確かに、ジョンニュートンのように、神の召しをいただいた後、すなわち回心の後、新しい身分になって主のために仕えた人がいました。彼(John Newton1725 - 1807年)は、イギリスの海軍兵士から奴隷商人を経て牧師となった人物であり、賛美歌「アメイジング・グレイス」の作詞者として知られています。回心後、奴隷貿易反対運動に関わりましたが、下院議員を辞めて聖職者になりたいというウィルバーフォースの希望を断念させ、福音主義の議員の立場から奴隷貿易反対をすべきであると忠告したのです。自分は身分を変えたけれど、あなたは召されたままでいることの方が主のしもべとして奉仕できる、と諭したのでしょう。180781歳の時、英国国会法で奴隷貿易の廃止が決定される。そのあと、ニュートンは主のみもとに召されたのです。
 大切なのは、自分や人の意見に従うことではありません。あなたを召してくださったイエス様のみこころをのうちに歩むことなのです。

「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」エペソ4:1

2015年9月 4日 (金)

市民講座のお知らせ

今年度、第2回目の市民講座です。日時は10月7日、午前10:00、ふれあいキューブ4階の会議室1です。前回お話しできなかった、高山右近の信仰と茶の湯、そしてゲストには、春日部に生まれ桐ダンスの伝統工芸を後世に伝えるべく奮闘している、島田さんのお話しです。

下記をご覧ください。

市民講座のお知らせ

 今年度、第2回目の市民講座です。日時は10月7日、午前10:00、ふれあいキューブ4階の会議室1です。前回お話しできなかった、高山右近の信仰と茶の湯、そしてゲストには、春日部に生まれ桐ダンスの伝統工芸を後世に伝えるべく奮闘している、島田さんのお話しです。

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