フォト
無料ブログはココログ

« 2015年10月 | トップページ | 2015年12月 »

2015年11月

2015年11月29日 (日)

まことの礼拝のために  1コリント11:1-16  2015.11.29

 

 本日は、待降節第1週目の主日です。待降節は、主イエスキリストの誕生を祝う降誕祭を迎える備えの時であるとともに、キリストの再臨に備えることに心を向ける時です。
 さて、本日のテキストは、聖書研究としては面白いところですが、待降節の説教テキストとしては選ばれることの無い箇所だと思います。コリントの公同の礼拝において、女性は頭にかぶり物をすることが当然であると理解されていた時に、被り物をしない女性がいたのでしょう。礼拝における被り物の問題をパウロに問うた、その答えとなっている個所です。
 パウロの答えは明白です。女性は被り物をするべきであり、たとい異なる意見があったとしても、諸教会には礼拝の時に女性が被り物をしないという習慣はない、と断じています。今日では、女性がベールをかぶって礼拝に集う教会もあれば、多くのプロテスタント教会のように、そのようなことの無い教会があります。ベールではなく、帽子をかぶって礼拝に集うというところもあるでしょう。この箇所で語る礼拝時における女性の被り物は絶対守らなければならないものではなく、それぞれの文化や営みに照らして考えるべきことであると思います。
 しかし大切なことを、この箇所は教えています。私たちが公同の礼拝に集う時の心のあり方、また実際の姿はどのようなものか、ということです。キリスト教圏では、サンデークロージングという言葉があります。日曜日の礼拝に集う時には普段着ではなく、そのための特別な服装をして出かける、ということです。これは、まことの神様の前に出るのであるから、きちんとした身なりで教会に行くべきであるということからきていることです。確かに、私たちも外出時には、TPOに合わせた服装をするでしょう。キリスト教会2000年の歴史で、最も大切にしてきたのは、日曜日の礼拝です。私たちを愛し、生かしてくださっている神への礼拝の時ですから、これは当たり前のことでしょう。
 毎週の礼拝に、私たちはどのような思いで集っているでしょうか。帽子や服や履物の問題ではありません。心のありようです。
 降誕祭を英語でクリスマスというのは、誰でも知っていることでしょう。その意味は、キリストを礼拝する、ということです。東の国から来た博士たちは、幼子イエスを礼拝し、高価な黄金、乳香、没薬をささげました。なにも持たずに来た羊飼いたちは、神を崇め賛美したのです。彼らは、イエス様に対し、まことの礼拝をささげたのでした。
 私たちも、霊と真をもって、神様に喜ばれる礼拝をささげて救いの御子のご降誕を待ち望みましょう。
 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。ローマ12:1 


2015年11月23日 (月)

ローズマリヤ

 先週土曜日、11月22日に、丘の上教会で葬儀が営まれた。3年ほど前、治療法のわからない難病に罹られたO姉が来会され、その方が19日に召されたのだ。14日に容態が悪くなり救急車で、埼玉医療センターに搬送され、その日の夕方洗礼を、授けさせていただいた。
 洗礼名は、ローズマリヤ。マリヤはマルタとラザロの妹であるマリヤである。このマリヤは、イエスのみ言葉に聞きいり、イエス様の死を思って高価な香油を惜しみなく注いだ女性である。その姿は、O姉の教会での姿そのものである。ローズは、もちろんバラのことである。彼女はバラが大好き、自宅のお庭はさながらバラ園のようであった。この部分は、ご主人による命名である。二人の合作ともいうべき、洗礼名である。
 翌週には葬儀となったので、仏式の戒名を思わせる。しかしこれは、新し名前、復活の時に呼ばれるかもしれない名前である。教会に来られ、み言葉を聞き、聖書の学びの中で信仰を告白され、そのしるしとして生涯の最期に洗礼を受けられた、その証としての、洗礼名である。
 O姉の歩んできた道をご主人から改めて伺い、栄養学の教授として素晴らしい働きをされたことも知った。何よりも、葬儀を通して、ご主人の深い愛と、お子さんたちの母を敬愛する思いに触れたのである。
 翌日は、春日部市の街角コンサートであった。家内がオルガン演奏をしたのであるが、O姉を天に送る、鎮魂歌のように聞こえた。深い悲しみ、またO姉を失った寂しさの中にあっても、すがすがしく天を見上げるような葬儀だったのである。

Img_1514_3
オルガン演奏↓

2015年11月22日 (日)

信じ、行なう  ヨハネ9:35-41  2015.11.22

 

「信仰」と「行ない」は、時々対立するもの、対極にあるものととらえられることがあります。しかしこの両者は、切り離すことができません。信仰と生活を戸()で仕切ってはならないのです。信仰生活、ですね。ヨハネの福音書には、奇跡としてしてのしるしが、イエスの復活以外に7つ描かれています。ヨハネの福音書の目的に沿ってイエスの行ったこれらのことが書かれているのです。その目的は、はっきりしています。
「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」(ヨハネ20:31) 
 本日のテキストは、生まれつきの盲人をイエスが癒したという物語です。パリサイ人から尋問を受けたこの元盲人は、自分の目を開けてくれたのは誰だかわからないが、偉大な方であろう、そして今自分が見えることは紛れもない事実なのだと言います。パリサイ人達は彼の親にも問いただすのですが、結局彼を外に追い出してしまいます。親にも同胞にも見放されたこの男に声を掛けたのが、イエス様でした。この時彼は「はい主よ、信じます」と信仰を告白するのです。これがこの物語のクライマックスです。信じることのの方が、何かをすることより大切なことと思わせる出来事です。
 しかしヨハネの福音書を読んでいくと、イエス様は信じる者にアクションを取ることを求めていることがわかります。特に13章にある洗足の場面、先生であるイエス様が弟子たちの足を洗う場面は、弟子たちに対して明確に行動することを命じています。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:15) 
 私たちの行動の力は、自分は神様に愛されている、大切な存在である感じるところから来ます。そして自分をある人や事柄に明け渡す時、行動が生まれます。
 NHKの朝ドラ「あさが来た」のヒロインのモデルは、広岡浅子という人物です。彼女は大きな病を負うのですが癒され、60歳を過ぎて洗礼を受けます。現在の東京女子大の設立に協力した浅子は、クリスチャンになってからますます女子の地位向上と教育に努めたのでした。神や人に愛されていることが自信となり、自分のことよりも他の人、特にあの時代の女性たちに自らを明け渡した結果の行動でした。私たちも自らに与えられた信仰を生かす行いを、全うしていきたいものです。
 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:8-10)


2015年11月 8日 (日)

イエスをいただく ヨハネ6:34-40 2015.11.8

5つのパンと2匹の魚で、5千人以上の人たちの空腹を満たしたというパンと魚の増加の奇跡の後、大勢の人たちがイエスを求めてやってきました。その人々を前に、神様は天からパンを与えたという話をされました。この物語の背景は、モーセに率いられてエジプトから脱出してきた人たちが、マナと呼ばれた食物によって飢えをしのいだという出来事です。
 それを聞いた人たちは「主よ、いつもそのパンを私たちにお与えください!」と言ったのです。私たちも同じようなことを言うでしょう。昔から古今東西、不老不死の薬を求めたり、長寿を全うすることを願った話があるように、人は命のパンを求めるものです。
 そんな人たちにイエスは、「わたしがいのちのパンである!」と宣言されたのです。このパンをいただくとは、イエスを信じることです。イエスはパンなのですから、イエスをいただくといってもおかしくはありません。しかしながら、人々は奇跡を見ても、あるいはイエスを見ても、信じることができませんでした。イエスをいただくことは、まれでした。そこに人の罪があります。罪とは、イエスを拒絶し、み言葉に従わないことです。これが人の不幸の源です。まさに、原罪なのです。しかしイエスを信じた者には、永遠のいのちが与えられる、これは神の約束であり、イエスの宣言であり、教会が昔から今も、そしてこれからもこの世の人々に語っていくメッセージなのです。
 イエスを信じる人が永遠のいのちを持つということは、どのようにしてわかるのでしょうか。永遠に生きていくような力や感じがするのでしょうか。それとも、聖人のような素晴らしい人間になることが、その証なのでしょうか。み言葉にこその証しがあります。
「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」1ヨハネ5:13 
 パンやご飯を食べても、また空腹になります。地上の生活が続く限り、栄養を補給しなければ人は生きていけません。同じように、イエスを信じて新しくされた者も、霊の糧を日々いただく必要があるのです。それは、いのちのパンであるイエスをいただくこと、すなわち聖書を心に蓄えることです。ノーバイブル、ノーブレックファスト。朝食の前に、まず聖書を読む、これが永遠のいのちに至る道の糧なのです。

2015年11月 1日 (日)

主の食卓にあずかる 1コリント10:13-22  2015.11.1 

偶像に備えた肉をどうしたらよいかという問題に対して、パウロはまず、真の神は唯一なのだから、偶像に備えた肉を食べようが食べまいが構うことはないと語ります。しかしながら、信仰の弱い人への配慮のために食べないこともできるとも言いました。そしてついには、偶像礼拝を避けなさいと、主なる神に仕える信仰を明確に示すのでした。
 一般に、食事は単に空腹を満たしたり、健康を支えるためにだけあるのではなりません。ともに食事をした人たちとの交わりがあります。また、すでになくなった人のことを思い起こして食事をすることは、個人と心において交わることになるともいえるでしょう。このようなことから、偶像にささげた肉を食することは、悪霊と交わることになる、また、自分は真の神以外のものに礼拝することはないのだから偶像に備えた肉にささげた肉を食べても大丈夫である、と言っている人たちに、鋭い警告を与える言葉となっています。
 主イエス様は、弟子たちと過ごした最後の過ぎ越しの職の席で、パンと盃を取って、新しい戒めを与えました。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ1334
 このことは、聖餐式として、あるいはミサとして、キリスト教2000年の歴史の中で今日まで守られてきました。これからも、主イエスの来臨の時まで、続くことでしょう。聖餐式、すなわち主の食卓にあずかることは、まずイエスキリストとの交わりを持つことであり、兄弟姉妹とも新しい愛による交わりを持つことの表現です。その中心は、み言葉です。聖書に基づいた主にあるこのような交わりが、私たちを祝福し、イエスと伴る歩みへの導くのです。
 「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」ガラテヤ5:13


« 2015年10月 | トップページ | 2015年12月 »