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2015年12月 6日 (日)

一つの食卓  1コリント11:17-34  2015.12.6

 待降節の、第2主日を迎えました。 
 本日は、聖餐式も行います。今日では、聖餐式は教会の礼典となっていますが、1世紀の初代教会の時代は、愛餐の中で主の晩餐として聖餐式が持たれました。教会といってもそれは信者の交わりを指すもので、教会堂ではありません。大きな家に集まり、そこで会食である愛餐を持っていたのでしょう。
 パウロがこの手紙を書いたのは、教会の中に分裂や分派があり、仲たがいをする人たちがいて、そのような人たちが一致するように求めたことが理由の一つにあります。この分裂や仲たがいが目に見える形で現れたのが、愛餐であり、主の晩餐の時だったのです。教会の交わりは、キリストにあって一つですから、社会的な身分や職業によって優劣がつけられることはないはずです。また、お互いに分かち合うことがコイノニアの意味ですから、格差もなかったはずです。教会でなくても、中の悪い人との食事は、おいしいものものどを通らないかもしれませんね。
 ところがいつの間にかいわゆる上座や下座が決まり、愛餐の席に早く着いた人は、空腹に耐えられず先に食べだしてしまい、遅れてきた人には食事がほとんど残っていない、というような事態が起きたのです。また飲みすぎてしまい、主の晩餐の時には酔っぱらって節度を失う人たちも現れる始末でした。このようなことを伝え聞いたパウロは、愛餐や主の晩餐の時の秩序のなさを責め、あらためてその意味を語るのです。
 パウロは直接イエス様から愛餐や聖餐のことを聞いたことはありませんでしたが、まるでじかに聞いたかのように「私は主から受けたことを」と言って、ペンを取ったのです。聖餐は、主イエスキリストの死を記念するものです。パンと杯は、そのことを表す象徴的なものです。しかし記念だからと言って、軽んじてはならないのです。自分を吟味し、神様の前に罪が示されたならば悔い改め、私たちのために十字架で死んで愛を示されたことを感謝し、自らを神様にささげる思いをもって、この聖餐にあずかることが大切です。教会によって聖餐の持ち方は違っていても、この点は共通です。教会の中で、分裂した思いを持っていては、本当に一つになって主の食卓である聖餐式を持つことができません。
 イエス様の招きの声を聞き、悔い改めと信仰をもって、聖餐式にあずかりましょう。まだ聖餐を受けておられない方があれば、今日心砕かれて、パンと杯をって主の大きな愛を体感してほしいと願います。

 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。黙示3:20

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