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2015年12月

2015年12月26日 (土)

み言葉による平安  ルカ2:21-40 2015.12.27

 今年の漢字に「安」が選ばれました。漢検のホームページによると、この文字を選んだ人たちの理由が3つにまとめられていました。それをさらにまとめると、このようになると思います。
 (1)「安」全保障関連法案の審議で、与野党が対立。採決に国民の関心が高まった年。これからの国の平「安」について改めて深く考えさせられた一年
 (2)世界で頻発するテロ事件や異常気象、世界で頻発するテロ事件や異常気象など人々を不「安」にさせた年
 (3)建築偽装問題やメーカーの不正が発覚し、暮らしの「安」全が揺らいだ。“「安」心して下さい”のフレーズが流行し、人々が「安」心を求めた年。
 本日のテキストは、飼い葉おけに寝かされた赤ちゃんが八日目の割礼を受け、イエスと呼ばれるようになったこと、律法の規定に従って両親がイエスを神様にささげるために、エルサレムの神殿に上った出来事です。神殿には、シメオンという人がいて、イエスを腕に抱いて神をほめたたえ、アンナという高齢の女預言者が、このイエスこそイスラエルを贖ってくださる方であることを人々に告げた、ということが記されています。
 シメオンは、救い主をこの目で見ることができたので「主よ。いまこそあなたは、あなたのしもべを、み言葉の通り安らかに去らせてくださいます。」と言いました。つまり、救い主を見ることができたのでもう死んでもいい!ということです。私たちは、いつ自分が死ぬのか、生涯の最期を迎えるのか、わかりません。どのような最期であっても、シメオンのように言える人は幸いです。ある英語訳の聖書には、go in peaceと訳されていました。安心して行きなさい、という意味です。どのような境遇であっても、神様の言葉がある時、安心して出ていくことができます。
 同志社大学の創立者の新島襄は、最初の卒業生を送る時に、Go! Go! Go! Go in peace!と言って彼らを送りだしたそうです。ここで学んだことが無駄にはならずきっと生かされるから、自信をもって、安心してこの世に出ていき、その務めを全うせよとのはなむけの言葉です。
 今年ももうじき終わろうとしています。この一年、平和な時だったでしょうか。新しい年は、どのような年になるのでしょうか。たとい不安と困難な道であっても、主のみ言葉があれば、平安のうちにその道を進んでいくことができるでしょう。
 

 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。ヨハネ14:27,31


2015年12月20日 (日)

救いの御子を迎える  ルカ2:1-20  2015.12.20

                             主イエスキリスト、救いの御子のご降誕、おめでとうございます。
 クリスマス、降誕祭はイエスキリストの誕生を祝うお祭りです。ほとんど世界中でその誕生を祝われ、時代や国を越えて実に多様な仕方で祝われている祭りは、降誕祭のほかにはないでしょう。この日本でも、11月ともなればクリスマスを意識した飾りが町中を飾り、そのピークが今週の24日となることでしょう。本来は1225日が降誕祭ですからそこにピークを持っていくべきなのでしょうが、お正月を控えている日本人にとっては、25日はおまけのような感じであるというのは、言いすぎでしょうか。
 このようにクリスマスの行事は国民的イベントではありますが、その中心であるはずのキリストを受け入れている人、キリスト信者の数はというと、これは実に少ないのですね。宣教師によってキリスト教が伝来したのが、16世紀の半ば、その後幕末と明治の最初に各教派の宣教師が来日し、キリスト教禁制下にありながら教会が誕生しました。太平洋戦争後にも多くの宣教師が来日して、活発な伝道がなされたのです。キリスト教の宣教約350年の歴史の中で、確かに信者は多くはないのですが、福祉、教育、日本の近代化、そして女子の地位向上などに果たした貢献は大きいものがあったと思います。
 しかしながら、徳川時代に立らえていた「切支丹は邪宗でありご禁制である」という高札は明治6年に撤去されましたが、今なお私たちの心の中に立っているのではないでしょうか。今年の漢字に「安」が選ばれたそうです。いろいろな意味があると思いますが、キリストの与えてくださる「平安」の安であることを祈ります。子供や若者の命と未来がが軽く扱われているように感じるこの国にあって、彼らの将来に希望を与える国となることを願います。キリストを締め出すのではなく、心の大掃除をしてキリストを受け入れ、私たちの平安と他の国々との平和のために、祈る者となりたいのです。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。ヨハネ1:12

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2015年12月14日 (月)

第19回市民文化講座

 年明け2月3日に、今年度最後の市民講座が行われます。メインテーマは「髙山右近」、ゲストは春日部の特産品である押絵羽子板の三代目琴山こと京極寿一さんです。

 前回は参加者が少なくて残念でしたので、皆様のお越しをお待ちしております。
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講座の案内はこちら→「Shiminkoza160203.pdf」

2015年12月13日 (日)

平和の道  ルカ1:67-80  2015年12月13日

 

待降節の、第3主日を迎えました。 来週は各会堂で降誕祭礼拝がささげられ、24日のイブには燭火礼拝(キャンドルライトサービス)25日は静かな降誕祭と続きます。 

 クリスマスのイメージは、「きよしこの夜」の讃美歌にあるように、光と静けさ、そして平和ではないかと思います。戦争中であっても、クリスマスの時はお互いに戦うことをやめたという話も伝わっています。ところが、イエス様が生まれた時代と場所は、ユダヤ人にとっては争い事の絶えない時であり、地域であったのです。しかも預言者を通して神様の言葉が語られない時代が、400年余りも続いていました。まさに暁闇の中で、イエスはお生まれになったのです。クリスマスの日取りが、昼間が最も短くなる冬至をもとにして決められたというのは、意味のあることだと思います。その日からは、昼間の時間が伸びてくるわけで、義の太陽であるイエスを迎えるにふさわしい日取りといえるでしょう。
 本日のテキストは、後にイエスに水の洗礼を施すことになるバプテスマのヨハネが生まれ、八日目に割礼を施したときの物語です。ヨハネ誕生の告知を受けながらも不信仰に陥り、口のきけなくなっていた祭司ザカリヤの口が、聖霊の促しのままに神を賛美して預言した箇所です。ザカリヤの賛歌、「ベネディクトウス」と言われています。神様がイスラエルの民を顧み、救い主誕生の前にその道備えをするものが生まれること、彼は罪の悔い改めを人々に説く者であることを歌っています。また、人々を平和の道に導くために、日の出の太陽のように救いの御子が現れることを預言したのです。
 今年日本は、戦後70年目の年でした。戦争体験が語られ、平和を求める番組や取り組みも多かったと思います。国会前では平和を求める人たちの声が、これまでになかったほど高く上げられました。しかし平和を求める願いとは反対に、米軍基地を70パーセント以上抱える沖縄の苦しみがあり、日常生活の中で突然起きる無差別の破壊に震撼させられています。 平和の道は、もう閉ざされてしまったのでしょうか。
 イエス様は、平和のために祈りなさい、平和を作る者となりなさい、と言われました。私たちにとって、祈りこそ平和への道をもたらすものなのです。時に、祈っているだけでも行動しなくては意味がない、と批判されます。イエス様の言われた祈りとは、イエスとの深い交わりであり、父なる神のみこころを行うことなのです。人()の中に恐怖心があると、争いが起こります。自分(自国)を守ろうとして、他の人()をやっつけようとする行動に出るからです。恐れを取り除くのは、イエスのことばであり、祈りのうちに与えられるものです。主のご降誕を待ち望む中で、まことの光と平安をいただき、平和の道を歩む者とされたいものです。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

2015年12月 6日 (日)

一つの食卓  1コリント11:17-34  2015.12.6

 待降節の、第2主日を迎えました。 
 本日は、聖餐式も行います。今日では、聖餐式は教会の礼典となっていますが、1世紀の初代教会の時代は、愛餐の中で主の晩餐として聖餐式が持たれました。教会といってもそれは信者の交わりを指すもので、教会堂ではありません。大きな家に集まり、そこで会食である愛餐を持っていたのでしょう。
 パウロがこの手紙を書いたのは、教会の中に分裂や分派があり、仲たがいをする人たちがいて、そのような人たちが一致するように求めたことが理由の一つにあります。この分裂や仲たがいが目に見える形で現れたのが、愛餐であり、主の晩餐の時だったのです。教会の交わりは、キリストにあって一つですから、社会的な身分や職業によって優劣がつけられることはないはずです。また、お互いに分かち合うことがコイノニアの意味ですから、格差もなかったはずです。教会でなくても、中の悪い人との食事は、おいしいものものどを通らないかもしれませんね。
 ところがいつの間にかいわゆる上座や下座が決まり、愛餐の席に早く着いた人は、空腹に耐えられず先に食べだしてしまい、遅れてきた人には食事がほとんど残っていない、というような事態が起きたのです。また飲みすぎてしまい、主の晩餐の時には酔っぱらって節度を失う人たちも現れる始末でした。このようなことを伝え聞いたパウロは、愛餐や主の晩餐の時の秩序のなさを責め、あらためてその意味を語るのです。
 パウロは直接イエス様から愛餐や聖餐のことを聞いたことはありませんでしたが、まるでじかに聞いたかのように「私は主から受けたことを」と言って、ペンを取ったのです。聖餐は、主イエスキリストの死を記念するものです。パンと杯は、そのことを表す象徴的なものです。しかし記念だからと言って、軽んじてはならないのです。自分を吟味し、神様の前に罪が示されたならば悔い改め、私たちのために十字架で死んで愛を示されたことを感謝し、自らを神様にささげる思いをもって、この聖餐にあずかることが大切です。教会によって聖餐の持ち方は違っていても、この点は共通です。教会の中で、分裂した思いを持っていては、本当に一つになって主の食卓である聖餐式を持つことができません。
 イエス様の招きの声を聞き、悔い改めと信仰をもって、聖餐式にあずかりましょう。まだ聖餐を受けておられない方があれば、今日心砕かれて、パンと杯をって主の大きな愛を体感してほしいと願います。

 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。黙示3:20

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