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2016年1月

2016年1月31日 (日)

多くの器官、一つのからだ 1コリント12:12-27 2016.1.31

 今年は、ブラジル、リオデジャネイロでオリンピック、パラリンピックが開催されます。異なる国や地域から大勢のアスリートが集い、それぞれの競技に全力を尽くすことでしょう。一つの目的のために、異なる人たちが結集するのです。
 ブラジルという国は、私とっては「移民の国」というイメージがあります。いろいろな人たちがいて、たいへんなのではないかと思うわけです。でも、一つの国なのですね。実際、2年前のわずかなブラジル滞在でしたが、そのことを実感する場面が良くありました。
 母の日を記念する礼拝で、日系の人たちだけでなく、他の国から移民した人たちも加わり、同じ賛美を歌い一人の神様を崇めたのでした。肌の色だけでなく、立ち居振る舞いや考え方も違うのですが「私たちはみんなブラジル人ですよ」と言われたその言葉が、大きな説得力を持っていたことに感動したのです。教会のお父さんたちが、婦人たちのために料理を作ってもてなしておられました。
 パウロは、伝道者として迫害を受け、その体に傷を負いました。牢獄にとらわれた時、彼はその傷をさすりながら、一つの部分が傷めばからだ全体にその痛みが走ることを実際に味わいました。そのことは、一人のクリスチャンや一つの教会の痛みが、全クリスチャン、全教会の痛みであることを想起させる経験でした。そして彼自身も弱さを覚えたのでした。
 「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」(2コリント11:29)
 人体には、確かにいろいろな器官(部分)があります。いわゆる痕跡器官などと言われ、実際には役に立っていないと思われている器官もあります。しかし乍ら、なくてもいいけれど虫垂のように大切な働きをになっている、という器官もあるようです。不都合がないのに、切除する必要はないのです。
 教会の中では、役に立たない人はおりません。ましてや、不必要な人はいないのです。自分は役に立たない弱い人間で、教会の足手まといになるからここから出ていこう、などと考えることはよくないのです。コリント人への手紙の中で、キリストは弱い兄弟のためにも死んでくださった、と語っているのです(8:11)
 多種多様な賜物が与えれ、それでも一つの教会として伸びていく、そんな姿をこの地域で表すことができたら幸いです。
 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。エペソ1:23


2016年1月24日 (日)

聖霊の賜物  1コリント:1-11  2016.1.24

 人には、それぞれ「才能」と言われるものがあります。それは、他の人より優れた技能であったり、自分のできる得意なことであったりします。ところが、私にはそのようなものはない、何の才能もないとりえのない人間なんです、という方があるかもしれません。
 しかし聖書には、神様は一人一人に良いものを与えている、それが聖霊の賜物であると言っているのです。英語では、ギフトということです。本日の箇所のほかに、ローマ人への手紙12章、エペソ人への手紙4章には賜物のリストがあります。賜物と似ているもので、神様が目に見える形で表してくださっているのが、「実」というもので、ガラテヤ人への手紙5章にあるリストが有名です。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制であり…」と書かれています。
 聖霊の賜物は、生まれ持った才能とは必ずしも同じではありません。他の人より優れているということでも無い、といった場合があります。賜物は聖書に書いてあること以外にもあり、実に多様なのです。しかし乍らこの賜物を与えてくださる神様はお一人であり、同一の聖霊による賜物なのです。このことは、身体のたとえをもって、語られていきます。いろいろな器官があっても、一つの体を構成しています。それと同様に、お互いが違う賜物を持っていても、神様の教会の一員として同じである、一つであることを示しているのです。多様性と同一性が、調和をもって存在しているといえるでしょう。
 ここには、九つの賜物が書かれています。ご自分の聖書を開いて、確かめてみてください。ここで大切なことは、これらの賜物は「各々に与えられている」ということです。すべての人に与えられている、別のことばでいえば、だれでも賜物を持っているということです。大切なのは、それを生かすことが神様に期待されていることであり、私たちの人生のだいご味でもある、ということです。タラントやミナというお金の単位が表れるたとえ話は、そのことを教えているのです。人と比べて自分の賜物の優劣を競ったり、この賜物はすごいぞ!と言って、誇ることは間違っています。表れ方は、皆違うのです。自分の賜物を知り、それを生かすこと、そのことによって教会全体の徳が高められていく。
 パウロはコリントの教会の人に、そのような賜物の活用を願っていたのです。

「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」1ペテロ4:10,11



2016年1月17日 (日)

助けがある

 正月三ケ日が空けて、今年初めての映画を観ました。市内のシネコンで上映されていました。それは、ある方のお薦めの映画で、「海難1890」といいます。
 この映画は、2015年日本とトルコの友好125周年を記念して制作されたものです。1890年に起きたエルトゥールル号遭難事件と、1985年のイラン・イラク戦争勃発時に、テヘランに取り残された日本人の救援のため、トルコ政府が救援機を飛ばして救出した、という二つの歴史の事実を結び合わせるストーリーの展開となっています。緊急時に外国にいる邦人を守るためにどうしたらよいか、というような議論がなされている中で、政治的なものに使われないように危惧してしまう自分がいましたが、感動をもって観ることができました。台風におそわれ、嵐に翻弄される中で、やや旧式になったエルトゥールル号を必死に立て直そうとする場面、打ち上げられたトルコの水兵たちを村中総出で介抱する村人の姿は、実際にあった出来事だけに胸にグッときましたね。両隣の年配のご婦人は、お二人ともハンカチを出して涙をぬぐっていたようです。
 嵐が去って、完全に破船しまったエルトゥールル号が映し出されたときは、自分も涙が出そうになりました。異国の地で海の藻屑となってしまった人たちのことを想うと、さぞ残念であっただろうと辛くなってしまったのです。
 しかしそのような中で、助かった人たち、助けられた人たちがいたのです。それが今日まで、日本とトルコの友好関係につながってくるのです。ここが素晴らしいところだと思いました。
 私たちも、四面楚歌になり、人生という航海の中で座礁し、破船することがあるかもしれない。しかしそこに、神様の助け、人の情けや真心があるのです。詩篇の祈りを、今日の祈りとしたいですね。


 詩篇705
 「私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。」


2016年1月 3日 (日)

荒海を渡る マルコ4:35-41  2016.1.3

 新年あけまして、おめでとうございます。主イエスキリストの2016年、本年も説教要約アップしてまいりますので、お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
 昨年選ばれた「今年の漢字」が「安」であったということが、まだ心に残っています。新しい年が一人一人にとって平安であり、地球規模においても平和を味わうことができる年となることを祈っています。
 本日の聖書箇所は、イエスが「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われて船を進めたところ、一天にわかに掻き雲り、はげしい突風におそわれたという場面です。私の好きな聖書物語の、一シーンです。この時弟子たちは、大いに動転してしまい、イエスに対して「俺たちは死にそうな目にあっているのに、あんたはこんなところでよく寝てられるな!」という叫び声が聞こえてきそうな場面です。そんな声にイエスはあわてず騒がず、一太刀をあびせるように風や波をしかりつけて静まらせ、返す刀で弟子たちの信仰は如何にと切りつけたのです。弟子たちは、いったいこのお方は何者なのかと、ますます恐れてしまいました。
 この出来事は、21世紀に生きる私たちに、いろいろなことを語っていると思います。私はこの箇所から神様は、「あなたの人生を大海原を行く航海に例えるとしたら、今年は荒波に遭遇することがあるかもしれない。今まさに、荒波にもてあそばれているかもしれない。それでもわたしがともにいるのだから、前に向かって進みなさい」と言っておられると思います。
 ガリラヤ地方と湖の様子を熟知した弟子たちでしたが、想定外のことが起きた時、彼らの不信仰が暴露されてしまいました。しかし、岸を離れたのですから後戻りはできません。向こう岸をめざして進むしかないのです。時には、元に戻ることも大切です。しかし目指すべき地があり、イエスがともにいてくだされば、前に向かって進むことができるのです。
 思いがけないことが、起きるかもしれません。新しい年、あらためて信仰の梶をしっかり握り、イエスの指し示す道を進んでまいりましょう。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」ピリピ4:6


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