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2016年2月21日 (日)

最も大きなもの 1こりんと13:1-13  2016.2.21

 本日の聖書箇所は、結婚式でも朗読される愛の章あるいは、愛の賛歌とも言われる、コリント人への手紙第13章です。コリント人への手紙の文脈から考察すると、教会の中に置いて様々な賜物が生かされるのは愛であり、愛によることがなければ混乱し、また神様の前には意味がないということを示そうとしているのです。
 1-3節は、「愛がなければ」という表現で、このことを明らかにしています。私には素晴らしい賜物が当てられている、と誇っている人にとっては、痛烈な皮肉のようにも聞こえたことでしょう。しかしこれは皮肉ではなく、人の心の中の思いを探られる言葉です。
 4-7節には、愛という言葉が主語になっており、十字架に示された神様の愛、イエスキリストの愛とはこのようなものであるということを示しています。単なる概念ではなく、実際の生活に現れてこそ、愛は生きて働く力となります。
 8-13節は、愛の永遠性です。最後の13節は、心に残りますね。信仰、希望、愛はいつまでも残るものですが、愛こそが最も大きなものなのです。世間には、愛という言葉や、それに近いことばが満ち満ちています。氾濫しているといっても、いいでしょう。
 大正、昭和の初期に活躍した新潟県生まれの作家、坂口安吾のエッセイに、次のような文章がありました。「昔、切支丹が初めて日本に渡来したころ、この愛という語で非常に苦労したという話がある。あちらでは
愛すは好むで、人を愛す、物を愛す、みな一様に好むという平凡な語が一つあるだけだ。ところが、日本の武士道では、不義はお家のご法度で、色恋というと、すぐ不義とくる。恋愛はよこしまなものに決められていて、清純な意味が愛の一字にふくまれておらぬのである。切支丹は愛を説く。神の愛、キリシトの愛、けれども、愛は不義に連なるニュアンスが強いのだから、この訳語に困惑したので、苦心のあげくに発明したのが、大切という言葉だ。すなわち、「神(デウス)のご大切」「キリシトのご大切」と称し、余は汝を愛す、というのを、余は汝を大切に思うと訳したのである」(「恋愛論」日本文化私観、講談社文芸文庫) これは、その通りのお話しです。
 山浦氏のセケン語聖書にはヨハネ
3:16を、次のように訳しておられます。「一人息子を与えたほどに、神様は、この世を大事にしなさった。これはすべての和子に、その身も心も委ねる者が、誰も滅びぬようにして、いつでも明るく活き活きと生きる力を与えるためだ。」
 私たち一人一人は、神様から大切に思われ、そのようにこの世に生かされている存在です。その思いをもって、他の人を「神様のご大切」という思いをもって接していけば、そこに平和が生まれるでしょう。

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