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2016年2月

2016年2月28日 (日)

平和の神に導かれる 1コリント14:26-33

 

世界中には、数え切れないほどの教会があると思います。教会堂を持っていなくても、あるいは迫害などのゆえにアンダーグランドな教会であっても、ともに集まって礼拝をささげているキリスト者は、世界中に満ちています。実に、ともに集まることがキリスト者の特徴ともいえます。
 「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(へブル10:24,25
 ということは、礼拝のかたちも多様であることが想像されます。エルサレムに教会が生まれ、それから間もないころにできたコリントの教会などでは、どのような礼拝がささげられていたのでしょうか。特定することは難しいと思いますが、ユダヤの民としての礼拝を守っていた流れを受け継ぎ、そこに、賛美、祈り、聖書の朗読、そして説教があったと思われます。今日のように礼拝式として定まったものではなく、かなり自由なものであったように思われます。それだけに、「私は主に導かれて、このように語ります」という人がいたり、突然異言を語りだしたりする人がいて、礼拝が混乱してしまったこともあったと思われます。
 コリントの教会の現状の一つはまさに礼拝における秩序の乱れであり、これを正すためにパウロは筆を取ったのでした。この14章で鍵になる言葉は、「徳を高める」ということです。どんなに素晴らしい賜物を持っていても、それが建徳のために使われなければ、意味がありません。うるさいドラや、シンバルになってしまいます。13章で、賜物を用いるには、神様の愛が必要であることを示したパウロは、徳を高めるために、あなた方の信じている神様は混乱の神ではなく平和の神であり、その方のもとに一つとなって、秩序だった礼拝をささげるようコリントの人たちを諭しているのです。
 この自然界は秩序を持ったものであることが、創世記の1章を見るとわかります。人はその管理を任されたのであり、神の秩序を破って己の力をふるってはならないのです。かならず、しっぺ返しを受けます。また、社会生活や家庭も同じです。立てられている人を尊敬し従うことがなければ、社会も家庭も崩壊します。そして教会もまた、秩序を保たなくてはいけません。キリスト教2000年の歴史の中で、教会の営みが作られてきました。それは人の作ったものですが、教会のかしらはキリストであってその方に従うこと、またキリストは教会の土台石でもあるので、キリストによって信仰を堅くされることが必要なのです。
 あなたの描く神様は、どのような方でしょうか。混乱に陥れるような方ではなく、私たちを平安と和解に導く、平和の神であることを心に留めましょう。

ローマ5:1 「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」


2016年2月21日 (日)

最も大きなもの 1こりんと13:1-13  2016.2.21

 本日の聖書箇所は、結婚式でも朗読される愛の章あるいは、愛の賛歌とも言われる、コリント人への手紙第13章です。コリント人への手紙の文脈から考察すると、教会の中に置いて様々な賜物が生かされるのは愛であり、愛によることがなければ混乱し、また神様の前には意味がないということを示そうとしているのです。
 1-3節は、「愛がなければ」という表現で、このことを明らかにしています。私には素晴らしい賜物が当てられている、と誇っている人にとっては、痛烈な皮肉のようにも聞こえたことでしょう。しかしこれは皮肉ではなく、人の心の中の思いを探られる言葉です。
 4-7節には、愛という言葉が主語になっており、十字架に示された神様の愛、イエスキリストの愛とはこのようなものであるということを示しています。単なる概念ではなく、実際の生活に現れてこそ、愛は生きて働く力となります。
 8-13節は、愛の永遠性です。最後の13節は、心に残りますね。信仰、希望、愛はいつまでも残るものですが、愛こそが最も大きなものなのです。世間には、愛という言葉や、それに近いことばが満ち満ちています。氾濫しているといっても、いいでしょう。
 大正、昭和の初期に活躍した新潟県生まれの作家、坂口安吾のエッセイに、次のような文章がありました。「昔、切支丹が初めて日本に渡来したころ、この愛という語で非常に苦労したという話がある。あちらでは
愛すは好むで、人を愛す、物を愛す、みな一様に好むという平凡な語が一つあるだけだ。ところが、日本の武士道では、不義はお家のご法度で、色恋というと、すぐ不義とくる。恋愛はよこしまなものに決められていて、清純な意味が愛の一字にふくまれておらぬのである。切支丹は愛を説く。神の愛、キリシトの愛、けれども、愛は不義に連なるニュアンスが強いのだから、この訳語に困惑したので、苦心のあげくに発明したのが、大切という言葉だ。すなわち、「神(デウス)のご大切」「キリシトのご大切」と称し、余は汝を愛す、というのを、余は汝を大切に思うと訳したのである」(「恋愛論」日本文化私観、講談社文芸文庫) これは、その通りのお話しです。
 山浦氏のセケン語聖書にはヨハネ
3:16を、次のように訳しておられます。「一人息子を与えたほどに、神様は、この世を大事にしなさった。これはすべての和子に、その身も心も委ねる者が、誰も滅びぬようにして、いつでも明るく活き活きと生きる力を与えるためだ。」
 私たち一人一人は、神様から大切に思われ、そのようにこの世に生かされている存在です。その思いをもって、他の人を「神様のご大切」という思いをもって接していけば、そこに平和が生まれるでしょう。

2016年2月14日 (日)

主の歩まれた道行き へブル2:9-17 2016.2.14

 教会歴では、先週の水曜日を「灰の水曜日」といい、ここからレントという期間が始まります。6回の日曜日を除く復活祭までの日数は40日なのですが、この40という日数は、旧約聖書のモーセやエリヤ、そして新約聖書のイエスキリストが断食をした期間であり、象徴的な意味合いをもっています。
 信者にとってレントは、十字架にかけられた主イエスキリストの受難に思いをはせながら、一年のうちでもっとも厳粛な悔い改めと、克己精進が求められる大切な期間であり、また、求道者にとっては洗礼の準備をする時ともなっています。英語のレント(Lent)lentenの短縮形で、語源は日が長くなる季節、すなわち春の意味であり、春を待ちわびることを表す言葉ともいえます。イエスの生涯とその苦難に思いをはせながら、自らを省みて、深い祈りの時を持ち、節制によって手元に残ったお金を特別な献金(克己献金)としてささげ、教会や、その他助けの必要な人々のために用いることも行われます(八木谷涼子「キリスト教歳時記」より)
 イエス様のいかれた道行きは、神である方が人と同じ肉体を取って歩まれて、苦難の道行きでした。その道行きのゴールは、十字架に付けられるという、最も屈辱的で、神に呪われ見放された者としか思えないようなものだったのです。しかしこれこそ、主イエスにふさわしい歩みだったのです。人の目にはそのように見えないのですが、ここに神秘があります。神にふさわしくないと思われる歩みのうちに、人を罪から救い、死の恐怖から解放する力が秘められていたのです。そしてイエスを信じる者はこの救いにあずかり、教会に加えられ、神の子供としての新しい人生が始まるのです。十字架の先には、復活があるからです。キリストの道行きをたどる歩みが、始まったのです。
 先週212日、ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王とロシア正教会のキリル総主教はキューバで初めて会談したという出来事がありました。フランシスコ法王はキリル総主教に会うなり「やっと(会えた)」と叫び、「われわれは兄弟だ」として抱擁を交わしたそうです。実に、1054年に東西の教会が分裂してから、ようやく和解への道に踏み出したのです。
 主の歩まれた道行きは、和解の道でもあるのです。私たちもまた、このレントの期間、自分と違う人と仲良くできる道を歩みたいものです。キリストは、その人のためにも死んでくださったのですから。
 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。ローマ4:25

2016年2月 7日 (日)

神の召しと任命 コリント12:27-31 2016.2.7

 イスラエルツアーでガリラヤ湖のほとりに立った時、ここでペテロやヨハネはイエス様の招きの声を聞いて、弟子となったことを改めて思い起こしました。「わたしについてきなさい、あなた方を人間をとる漁師にしてあげよう」とは、イエス様の声でした。何を言っているのか、わからない言葉だと思いませんか?まるで禅問答のようです。その声を聞いたペテロたちは、網を捨て、親までも捨てて招きの声に従って弟子となったのです。収税所に座っていたマタイも、イエス様の招きの声にすぐに従ったのでした。その時のお金や帳簿の整理はどうしたのか、思わず心配になってしまいます。しかしそのようなことにかかわりを持たなかったのです。
 彼らは、12弟子でした。しかしすぐに、使徒と呼ばれるようになりました。マタイ10:1-4には、
「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。」と書かれています。イエスに従う者から、遣わされるものになったのです。
 教会は、いろいろな賜物を与えられた人たちの集まりです。そして神様の召しと任命によって、異なる働きに着きました。一つのからだが健康に育っていくように、教会もキリストのいのちをいただいて、成長していくためです。この召しと任命は、主なる神様から出たことでした。私たちもそれぞれに神様から使命をいただいているのですから、召してくださった神様のために、お互い仕えていこうではありませんか。
1ペテロ4:10 
 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

2ペテロ1:3 
 というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。

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