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2016年3月

2016年3月20日 (日)

十字架から復活へ  2016.3.20

キリスト教歴では、本日から受難週となります。イエス様の生涯最後の1週間をたどり、思い起こす日々となっています。この出来事は4福音書に書かれていますが、マルコによる福音書の記事が一番わかりやすいように思います。4つの福音書の中でマルコの福音書が一番古く書かれたと言われており、イエス様最後の一週間を日記をつけるように日ごとに記録しているからです。

受難週の主な出来事は、以下のようになります。み言葉を開いて、ご自分でも確かめてみてください。

20() マルコ11:1 シュロの主日(聖日)、イエスのエルサレム入り、人々の歓呼の出迎え

21() マルコ11:12 実の無いイチジクを呪う、神殿で商売をする人達を追い出す、

22() マルコ11:20 枯れたイチジク、神殿で祭司や律法学者らと論争をする

23() マルコ14:1 マリヤはイエスに高価な香油を注ぐ

24() マルコ14:12 過ぎ越しの食事、洗足と聖餐の制定、ゲッセマネの園での苦悶

25() マルコ15:1 イエスの捕縛、裁判、鶏鳴、十字架の上の死、埋葬

26() マルコ15:42 安息日、墓の前に番兵が立つ

27() マルコ16:1,2 復活の主日(聖日)、 弟子たちへの顕現

イエス様の最後は十字架の死です。しかし、死は終わりではありません。復活へと続くのです。この十字架は、復活のイエスをも表しています。今、あなたにも死に値するような苦しみを味わっているかもしれません。しかしイエス様の命に生かされる日、復活の日があることを信じて、その苦しみの道を進んでいきましょう。


・・・

2016年3月13日 (日)

語りつがれる物語 マルコ14:3-9 2016.3.13

本日の聖書箇所は、受難週に起きた物語の一つです。一人の女性がイエス様の頭に純粋で高価なナルドの香油を注いだ、という出来事です。
 この物語の面白さは、彼女のした行為を弟子たちは、もっともな理由をつけて非難するのですが、イエス様はその反対に彼女の行為をご自分に対して最もふさわしいことをしたとして「立派なことをした」と言われているところです。一つの同じ行為に対して、真逆の評価があったということです。
 いったいこれは、どういうことでしょうか。マルコの福音書によれば、イエス様はご自分が受ける苦しみと復活のことを、弟子たちに直接話されました。いわゆる、受難の告知です。それは3回なされましたが、いずれも弟子たちはイエス様の言われていることを理解することができませんでした。ペテロなどは、「そんなひどいことが起こりませんにように。」などと、イエス様をわきに呼んでいさめているのです。さすがに、「下がれ、サタン!」と逆に叱責され、何も言えなくなってしまうほどでした。弟子たちは、イエス様の身近に居乍ら、主の心を十分理解することができなかったのです。
 では、何が彼女に、イエス様の頭に香油を注ぐという行為をさせたのでしょうか?香油の注ぎは埋葬の用意である、と主は言われました(8)。遺体をきよめ、香油を塗ることによって葬りの準備をするのが、この当時の習慣でした。弟子たちは、イエス様の受難と最期の様子を聞いても、イエスの死をきちんととらえることができなかったのです。しかしこの女性は、イエスの死に共感し、共に苦しみ、悲しむことができたのです。そしてこれから死に赴くイエス様のために、最高のことをしようと決心したのです。たとい他の人から、そんなことをしてもどうせ死んでしまうのだから何の役に立つのか、といわれてもです。あなたの身近な人が死に瀕しているとき、あるいは看取りの時、何をするでしょうか。おい先の短いことがわかっていても、できる精いっぱいのことをしてあげようと思うのではないでしょうか。他の人から見れば、愚かなことのようでも、死を共感し精いっぱいのことをする、これは人の道にかなったことでもあるのです。
 イエス様の苦しみを、自分の苦しみと共感したとき、そこから素晴らしい愛のわざが生まれます。何よりもイエス様は、私たちの罪とその結果である死の苦しみを知って、自らその咎を負ってくださったのです。イエス様の物語こそ、これからも語りつがれる、愛の物語なのです。

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。2コリント4:10


2016年3月 6日 (日)

朽ちないものへ  1コリント15:50-58  2016.3.6

90:2-4 山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。
 これは、神の人モーセの祈りとされている、旧約聖書の言葉です。葬儀の最後である骨上げの時に、人は死ぬとチリに帰るということを実感します。
 私の母は、20093月に召されました。享年87歳。認知症が進んで入院していたのですが、ついに点滴が入らず体はパンパンに膨れ、苦しそうにしておりました。いわゆる延命治療をやめて、身体につながれている管をすべて外す決断をいたしました。しかしそれからは腫れが引け、身体も楽になったせいか、表情も明るくなりました。それから数日後、私のそばで、本当に静かに息を引き取りました。朝目覚めた時の「おはよう」という言葉と、弟と介護している時に突然「ありがとう」と言った言葉が、最後のことばとなりました。火葬の後の骨上げでは、木の箱に骨を拾って入れました。関東では陶器の骨壺なのですが、実家のある上越地方では木の箱なのです。理由は、納骨の時に分かりました。実家の近くのお墓に葬ったのですが、墓石をどかし、その中に箱からざーっとお骨を流し込んだのです。もう骨箱はいらないのです。文字通り、チリに帰るのだなあと実感いたしました。それだけでなく、今度は新しいからだになって甦るのだと、深く思わされたのです。
 キリストを信じる者は、朽ちないからだによみがえります。十字架につけられ、墓に葬られたイエス様が初穂としてよみがえられたという歴史の事実に基づいています。福音の中心は、まさに復活なのです。
 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(1コリント15:20)
 ドイツ語で初穂というのは、神から人に与えられたもの、また、傷のないきよいものを表すともいうことです。朽ちるからだが、朽ちないものに変えられるというのです。それであればこの地上での生活を、どのように過ごすかが問われてきます。死は、人の最後です。ジ・エンドです。とても悲しい出来事です。しかし本当に、終わりなのでしょうか。人は朽ち果てて、それでおしまいなのでしょうか。聖書は、そこからよみがえりがある、死は終わりではなく、新しいスタートであると告げるのです。人は神様から与えられたきよい美しいからだに変えられるのです。それこそが渡したりの生ける希望となるのです。
 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。ローマ8:37


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