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2016年7月

2016年7月31日 (日)

主イエスの現れの時まで 1テモテ6:11-16 2016.7.31

先週は、戦後最悪と言われる殺傷事件や地震が各地で起きたりなど、私たちを不安にさせるようなことがありました。海外では、相変わらずテロや悲惨な事件が起きています。このようなことがいつまで続くのか、これまで学んだように「主よ来てください」と言わざる得ないような私たちの世界です。
 本日のテキストは、パウロがその弟子である若きテモテに書き送った手紙です。祖母と母から受け継いだ敬虔な信仰をもとに、信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちにかかわる働きを全うするようにとの薦めがあります。この戦いという言葉は、オリンピックなどの競技で使われる言葉であるという解説がありました。古代オリンピックの花形は、陸上の徒競走だったようです。他の人を負かすような競技ではなく、ゴールをめざして自らを打ちたたいて励むような姿が思い起こされます。
 これは日々の生活の中で、自分の信じていること、信仰の告白を表すことに他なりません。私たちの主イエスは捕えられた時、時のユダヤ総督ポンテオ・ピラトの前に引き出され、そこでりっぱな告白をしたのです。
 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」(ヨハネ18:37)
 ピラトはイエスが妬みから訴えられ、死に値するような罪はないことを知っていました。しかし祭司長や律法学者たち、そして民衆の声に自分の思いを曲げ、イエスを人々に渡してしまったのです。
このピラトは、国の権威、国家権力の象徴として解釈されます。それぞれの国の民は立てられた権威に従わなくてはなりません(ローマ13:1)。しかしその国家の権威が人々の心に土足で踏み込んでくるようなことをしたとき、今日的なことばでいえば、その人の思想や信条を無視して人権を侵すようなことをしたとき、これに抵抗し、従うことができないということが起こります。国家の権威を与えた神様ご自身に従うことが、まず第一とされるのです(使徒5:29)
 今の私たちの国の権威は、この神様の前に謙虚になっているでしょうか。私たちもまた、11節に進められているような徳目を追い求めているでしょうか。主が再びおいでになるまで、それぞれの人生というレースを全うしたいですね。

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。(へブル12:1)


 

2016年7月17日 (日)

主よ来てください  1コリント16:13-24 2016.7.17

本日は中央会堂での説教です。

コリント人への手紙の結びは、「主よ、来てください」という言葉です。これはアラム語で、マラナタと言います。マラナは、私たちの主という意味で、タが来る、あるいは来てくださいという意味になります。
 旧約聖書には、ハレルヤ、アーメン、インマヌエルといった言葉があります。挨拶には、シャロームも使われたことでしょう。このマラナタは、主イエス様の復活と再臨の約束から生まれた言葉です。
 それゆえ、この言葉は初代教会の祈りともなりました。コリント人への手紙では、パウロが十字架につけられたイエスを宣べ伝えること、そのイエスは死んで墓に葬られよみがえられたこと、そして再びおいでになることを明らかにしています。主が再び来られることは、私たちが全く新しい人にされることの希望です。死の彼方に、新しい命があることの確信となるのです。
 主よ来てくださいというのは、私たちの普段の苦しみを取り去ってほしいとか、大きな問題を今すぐ解決してほしい、ということではありません。そのようなことも含みますが、なにより死の彼方にあることへの希望なのです。
「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る。』」アーメン。主イエスよ、来てください。黙示22:2
 主が再びおいでになることが、私たち人間だけでなく、この自然界、被造物世界の贖いにつながっていくのです。それゆえ、今の苦しみであっても、無意味なことはなく、無駄になることもないのです。パウロの書簡を閉じるにあたり、彼の語った言葉を、心に留めたいものです。
 1コリント15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。


 

2016年7月10日 (日)

愛するものへの手紙 1コリント16:13-24  2016.7.10

今年も一年の半分を過ぎ、7月になりました。年を取ったせいか、あっという間に半年過ぎてしまったという感じです。7月は文月とも言われます。その由来は、77日の七夕に詩歌を献じたり、書物を夜風に曝す風習があるからというのが定説とのことですが、諸説あるようです。
 聖書は一冊の本になっていますが、いろいろな読み物が集まったものです。新約聖書の後半は、黙示録を除いて書簡、すなわち、教会や個人にあてた手紙から成り立っています。文月に読むにはふさわしい箇所ですね。
 パウロがエペソからコリントにあてた手紙が、本日のテキストです。コリントは中央ギリシヤとペロポンネソス半島を結ぶ地峡の25キロ南にある都市で、西と東との海路の接続点、また北と南との陸路の接続点にあり、通商や交通の要路となっていました。全世界に福音を宣べ伝えよ、とのイエス様のご命令を果たすには、格好の場所だったのです。しかしこの街の教会には、分裂や分派、偽りの教えや不道徳が入り込み、パウロの心を苦しめていました。そんな教会を気遣って書かれたのが、この手紙です。
 様々な問題を取り扱った後、この16章は手紙を閉じるにあたって書かれたパウロのコリントの人たちを想う心が感じられる箇所です。献金の勧めは(1-3)、財政的な困難に陥っているエルサレム教会を助けるためでした。思いつきの献金ではなく、きちんと準備しているようにと勧めています。このことから、キリスト者たちは週の初めの日に集まるようになったことがわかります(2)。パウロは、コリントへの訪問を考えていました(4-9)。さっと通過するのではなく、腰を据えて滞在し、彼らとキリストを中心とした交わりを持ちたかったのでしょう。10節からは、働き人に対する配慮がかかれています。一人一人のことを取り上げることはできませんが、彼らを主の働き人として尊敬するよう勧められています。結びの挨拶では(19-24)、主イエスキリストが再び来られることを望みとして過ごすことをあらためて書いています。「主よ、来てください」という言葉はアラム語で、「マラナタ」と言います。初代教会から今日まで、キリスト者の合言葉として伝えられています。
 パウロが願っていたのは、「いっさいのことを愛をもって行いなさい」ということでした。愛するがゆえに、厳しいことばも書かねばなりませんでした。
パウロはその後、第3回伝道旅行の時にコリントに立ち寄り、ここでローマ人への手紙をしたためました。しかしコリントの教会は、1世紀末になっても、なお混迷していたようです。現代のコリントには立派な教会が建っていますが、パウロの伝道した地は遺跡となっています。

 しかしこの手紙が残っていることにより、パウロの教会を愛する愛を感じるのです。いろいろな方法で、人はその愛を伝えることができます。現代では、電話やメールがありますね。神様はご自身の愛を、イエスキリストによってあらわされました。イエス様の物語が記されている聖書こそ、神様からの愛の手紙なのです。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。1ヨハネ4:9


2016年7月 1日 (金)

ニッキーで~す!

 チョウ久しぶりのELCアップです。

 
 ELC教師として今年来日し、バリバリ頑張っているのが、ニッキーこと、ニコレット・ガブリエル・ミヤーさんです。現在、武里の一軒家で、私の娘と一緒にルームシェアをして暮らしています。若さにあふれ、きっちりと教えてくれるレッスンは、今までの教師の中で1,2ではないでしょうか。クリスチャンとしての熱い思いも持っており、この日本のために自分のすべてをささげたいという思いを感じます。現在は、オーストラリアからの友人も来ており、こちらも元気をもらっているように感じますね。夜のクラスには少し余裕がありますので、ぜひお越しください。
 Anna              ⇊
Nikki

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