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2016年9月25日 (日)

慰めの神 2コリント1:1-11 2016.9.25

しばらくぶりでの、礼拝説教更新となります。本日の説教のキーワードは、慰めです。さて、神とは、どのような存在なのか。もろもろの神論や定義の中ではなく、切れば肉が裂け血を流す生身の人間である私たちとどのようなかわかりがあるのか、という問いです。
 パウロの書簡であるコリント人への手紙は、「慰め」と言う言葉が多く出てきます。コリントの街は、紀元1世紀においてはローマ帝国内において繁栄した街の一つであり、パウロの伝道により教会が生まれたところです。彼は何度かこの地を訪れ、そして数通の手紙を送っています。それだけ、このコリントの教会を心にかけていたということです。教会にいる人たちですから、皆クリスチャン、キリスト者でした。しかしクリスチャンと言っても文字通りピンキリで、成熟した人たちもいれば、普通の人と変わらない人達、いやパウロの目から見ればどうしようもない人たちもいたのです。
 コリント人への手紙には、パウロがいかに苦しみを味わっていたかを、知ることができる言い方が出てきます。確かに彼は迫害を受け、海の難、川の難を受けました。しかし時に死を覚悟するほどの苦しみは、教会の問題、主にある兄弟姉妹の持っている問題だったと思います。パウロはそれらの苦しみを、「キリストの苦難」に例えています。キリストの苦しみとは、人々のすべての苦しみ、それは罪に捕らわれ解放されていない人達の苦しみを負うということであり、そのゆえに十字架で死なれたのでした。
 しかしその苦しみがあるところに、慰めもまたあるのです。なぜなら、彼が信じている神、聖書が証ししている神は「慰めの神」であるからです。神様ご自身が、慰め主でありそこから泉のように慰めが湧き出ているのです。あるいは、清い流れの水源のように、神様から慰めが川のように流れ出ているのです。慰めをいただいた者は、苦しみにある他の人達を慰めることができます。泉から汲んだ水を、あるいは、川から掬った水を同じように苦しみにある人達に分かち合えばよいのです。
 先週、突然のけがで身体の自由を奪われた方を見舞いました。慰めの言葉は、私にはありませんでした。ただただ、慰めの神様に祈るしかありません。折にふれて、主の慰めの言葉を語り、またその方に耳を傾けることができるればと願っています。人の100の慰めより、神様の一つの慰めが私たちを力づけ、誤りを正し、いのちの道へと導いてくださるのです。
 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。2コリント1:4


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