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2016年10月

2016年10月30日 (日)

ここにはおられません」とは ルカ24:1-11  2016.10.30

 何かの集まりの時、そこにいない人があると、ずいぶんその人のことが気になるものです。普段は気にならない人であっても、しばらく音信が途絶えると、妙に心配してしまうことがあります。亡くなった人を思い起こすことは、その方が生きていたとき以上にその方のことを強く思う場合もあるのではないでしょうか。
 十字架で死なれ、取り下ろされ、イエスはまだ誰も入れられたことのない新しい墓に葬られました。安息日の翌日の朝、女性たちはイエスの遺体に油を塗るために、墓へと急ぎました。そこで見た光景は、入り口を封じていた大きな石が転がされ、中にイエスの遺体がなかったというショッキングな出来事でした。途方に暮れている女性たちにかけられた天使の言葉は「あなたがたは、なぜ生きている人を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません」という言葉でした。そしてそのあとに「よみがえられたのです。…お話になったことを思いだしなさい」と続いたのです。彼女たちは、イエスの語られたことを思い起こし、イエス様がよみがえられたことを信じ、最初の「主イエス復活の証人」となったのです。
 この話を聞いた男の弟子たちはしかし、彼女たちの話を信じませんでした。たわごとだと思ったというのですから、なんとも情けない話です。しかし、墓に走る二人の弟子がありました。ペテロとヨハネであり、彼らは空になった墓に、ポツンのイエスを包んだ亜麻布がそのまま置かれているのを見たのでした(ヨハネ20:1-10)
 現代では、イエスの遺体を包んだ布のことを聖骸布といい、それが本物か偽物かという論争があるということです。聖骸布の研究家の第一人者であるコンプリ神父は「聖骸布はイエスを知り、また知らせるために大変有効です。…現代人にとってイエスは、使徒トマスと同じように、「私の手に釘の痕を見なさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と言われる気がします。」(「これこそ聖骸布」2015.5.13ドンボスコ社)と言っておられます。今年初めてお会いしたとき、日本滞在60年を越えてなお、日本宣教に熱心に取り組んでおられる姿を拝見し、著書にあるように復活の証人として奉仕しておられることを感じたのです。
 「ここにはおられません」とは、イエスがあなたの心の中にいてくださり、やがてすでに召された愛する者と再会できる希望を与える神様のことばなのです。

 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)


 

2016年10月16日 (日)

栄光ある務め 2コリント3:1-11 2016.10.16

私の父は、中学校の教師として定年まで働きました。過日、再び父の最初の勤務地である上越市柿崎地区を訪れ、あらためてどんな思いでここで子供たちと過ごしていたのかと、思いをはせた次第です。戦後間もないこと、教師が不足している時代にアルバイト(代用教員)で子供たちと接したとき、「これが自分の天職だ!」と確信し、転職してしまったと聞きました。
 パウロは伝道者として、自分の務めがまさに天職であると確信しておりました。モーセが神様から授かった戒めは、石の板に刻まれていました。ユダヤ人に与えられた律法の最も中心的な戒めであり、ここから様々な規定が作られていきました。ダマスコ途上で復活の主イエスと出会ったパウロは、そのころはユダヤ名のサウロと呼ばれていましたが、新しく造り変えられたのです。御霊なる神様の働きでした。2コリント12にある第三の天にまで引き上げられたという表現は、その時のことを表した言葉だと思われます。
 この経験を通して、彼の生涯の務めは、イエスキリストによって示された神の国の福音を宣べ伝えることであると確信したのです。石に刻まれた律法は、人を罪に定め死に至らせるものです。しかし神の国福音は、人の心に書かれ、命を与える栄光ある務めなのです。といっても、律法を全否定しているのではありません。この律法を生かすのが、イエスキリストであり、今日の私たちは、キリストの心で律法に向かい合う時、律法を与えてくださった神様を知ることができるのです(マタイ5:17)
 私たちには、日常においてそれぞれ仕事や学業、家事などなすべき務めがあるでしょう。どのような事柄であったとしても、神の国福音を表す栄光ある務めがそこに含まれていることを意識して、毎日を過ごしたいものです。

出エ34:1 【主】はモーセに仰せられた。「前のと同じような二枚の石の板を、切り取れ。わたしは、あなたが砕いたこの前の石の板にあったあのことばを、その石の板の上に書きしるそう。

2コリント12:2 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に──肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、──第三の天にまで引き上げられました。

マタイ5:17  わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。



2016年10月 4日 (火)

ついに米山に

 誕生日の翌日、家内とともに今年2回目の里帰り。今回の目標は、父が最初に赴任した柿崎地区にある下黒川中学校(現在は柿崎中学校)から登れる米山をめざした。登り口は、もっともポピュラーな太平口。しかしあいにくの雨で、山頂にたどり着くことはできなかった。足元がかなり悪かったためである。しかし、林道の足元には山胡桃がたくさん落ちていて、シャリシャリ袋一杯に拾うことができた。
 翌日は快晴、次の目標である妙高山登山道に面した、称名滝をめざす。すぐ下には光明滝があり、2連の流れとなっている。妙高山麓には、百名滝である、苗名の滝と惣滝がある。称名滝は赤倉温泉の湯元にあることから、滝つぼ近くに温泉が湧き、すぐ近くには昨年修復した露天風呂がある。まさに秘湯なのだが、すでにネット上にアップされており、秘湯で無くなる日も近いかも。主の祈りを大声で唱えながらの、初滝行となった。

 この日は、地元妙高小学校の自然観察の子供たちも来ており、上越ケーブルテレビの取材を受けていた。今月中旬に学校紹介のコーナーで放映されるとのことで、実家の義理妹に録画をお願いした。 

この美しい光景を造られた神様と、郷里の子供たちの元気な声に、リフレッシュされたひと時であった。

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米山
称名滝→https://youtu.be/I7syZGn1BlQ

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