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2016年11月20日 (日)

死ぬべきからだ 2コリント4:6-15  2016.11.20

先週、教会の茶道教室の掛け軸は「真光照万物」という一行ものでした。伝道者として日本だけでなく、海外でも奉仕され、よく春日部にも来てくださった本田弘慈先生の90歳になられたときの書です。
 来週日曜日27日は、待降節、アドベントに入ります。まことの光であるイエスキリストの誕生を待ちわびる季節です。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(ヨハネ1:9)にある真の光、イエスキリストを指し示す言葉ですね。6節の関連で見ると、7節にある宝とはイエスキリストのこと、福音ということができます。しかし1節のみ言葉との関連で見ると、宝とはパウロの持っていた務め、福音宣教、証しということもできます。
 では土の器とは、何でしょうか。これは16
節にある「外なる人」と同様、私たち人間のことです。そこで教えられていることは何でしょうか。多くの方が解説しているように、それは欠点だらけの人間であり、自分の力ではなく神の力を信頼する謙遜を教えている表現でしょう。土器や素焼きの器のように、人はもろいものなのです。それとともに、ここでは死について語られています。土の器とはまさに、死ぬべき肉体、死ぬべきからだのことともいえます。89節にあるように、パウロは文字通り死を覚悟するような経験をしました。それも、イエスのための苦しみから来ることでしたので、イエスの死を彼自身がおっていたのです。全ての人は、確かにいつか死んでいきます。私たちのからだは、文字通り死ぬべきからだなのです。

 しかしパウロは、死ぬべきからだと言ってもそれはイエスの死を帯びていることであるから、死では終わらないというのです。なぜでしょうか?イエスは十字架上で死に、墓に葬られましたが、復活されたからです。復活は、信仰によって受け止められることです。パウロは、自らのダマスコ途上における経験を通し、また旧約聖書を学び、そして先輩の使徒たちからイエスの物語を聞いて、復活の信仰を確かなものにしていったのだと思います。
 カトリック教会の暦では、11月は死について考える時となっているそうです。また、最近、召された方の記念会、納骨式が続きました。そんなこともあって、このところフォーレとモーツァルトのレクイエムを聞いていました。モーツァルトは、自分の死を意識しながら、この作品を生み出していきました。天国を思っていたのでしょう。死という最も大きな悲しみ、痛み、苦しみの果てにある天国を思うことは、復活のキリストのいのちに、今日生かされることです。
 死ぬべきからだのうちにある、光のように輝くイエスキリスト、また復活の命を証しする福音宣教は、私たちの内側から力を与えてくれる素晴らしい宝物なのです。

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。2コリント4:16


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