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2016年11月

2016年11月27日 (日)

世に現れる時  2コリント5:11-19  2016.11.27

本日は待降節第1主日、主イエスキリストのご降誕を待ち望むときとなりました。  伝道者パウロは、まことの光として来てくださったイエスキリストを宣べ伝え、キリストの教会を建てあげるために、自分のすべてを神様にささげた人でした。どんなに同胞や異邦人からそのことをなじられようと、死を覚悟するような厳しい中を通らされるときであっても、キリストの十字架と復活を宣べ伝えることを止めることはありませんでした。自分のこの務めは神からのものであり、他の人から見れば、まさに狂気のさたとしか思えなかったかもしれませんが、ひるむことはありませんでした。なぜなら、彼の宣教の動機は、キリストの愛に押し出されたものだったからです(14)
 この宣教の務めは、和解の務めでもありました。救いはユダヤ人だけでなく、ギリシャ人やローマ人をはじめとする異邦人、すべての人に及ぶものです。隔てや差別の壁を壊してお互いが赦しあい和解すること、これこそが福音のもたらす新しい生き方だったのです。キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者とされるからです(17)
 先週、国立科学博物館に展示されている、シドッチ宣教師の復顔を見ました。彼は、キリスト教禁制の時代、日本に行けば間違いなく捕えられ、命さえも失うことを十分わかっていながら、万里の波頭を越えてイタリアからやってきたのでした。1708年に屋久島に上陸しましたが、はたして捕えられ、長崎から江戸に送られて新井白石の尋問を受け、1714年、現在の文京区小日向にあった切支丹屋敷の地下牢で亡くなりました。そこから発見された人骨がシドッチのものであると特定され、複願されたのでした。彼が洗礼に導いたのは、屋敷で彼の世話をしていた一組の夫婦だけでした。しかし彼の尋問をまとめた白石の「西洋紀聞」によって、シドッチの証しは今日も宣べ伝えられているのです。シドッチを日本に送ったのもまたパウロのごとく、キリストの愛だったのではないでしょうか。
 クリスマスは、イエスキリストの誕生を祝う日です。父なる神様の愛に押し出されて、この世にいる私たちを救い出すために現れてくださったキリスト、このお方が降誕祭の中心にあるのです。


 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。ヨハネ3:17


                             

 

2016年11月20日 (日)

死ぬべきからだ 2コリント4:6-15  2016.11.20

先週、教会の茶道教室の掛け軸は「真光照万物」という一行ものでした。伝道者として日本だけでなく、海外でも奉仕され、よく春日部にも来てくださった本田弘慈先生の90歳になられたときの書です。
 来週日曜日27日は、待降節、アドベントに入ります。まことの光であるイエスキリストの誕生を待ちわびる季節です。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(ヨハネ1:9)にある真の光、イエスキリストを指し示す言葉ですね。6節の関連で見ると、7節にある宝とはイエスキリストのこと、福音ということができます。しかし1節のみ言葉との関連で見ると、宝とはパウロの持っていた務め、福音宣教、証しということもできます。
 では土の器とは、何でしょうか。これは16
節にある「外なる人」と同様、私たち人間のことです。そこで教えられていることは何でしょうか。多くの方が解説しているように、それは欠点だらけの人間であり、自分の力ではなく神の力を信頼する謙遜を教えている表現でしょう。土器や素焼きの器のように、人はもろいものなのです。それとともに、ここでは死について語られています。土の器とはまさに、死ぬべき肉体、死ぬべきからだのことともいえます。89節にあるように、パウロは文字通り死を覚悟するような経験をしました。それも、イエスのための苦しみから来ることでしたので、イエスの死を彼自身がおっていたのです。全ての人は、確かにいつか死んでいきます。私たちのからだは、文字通り死ぬべきからだなのです。

 しかしパウロは、死ぬべきからだと言ってもそれはイエスの死を帯びていることであるから、死では終わらないというのです。なぜでしょうか?イエスは十字架上で死に、墓に葬られましたが、復活されたからです。復活は、信仰によって受け止められることです。パウロは、自らのダマスコ途上における経験を通し、また旧約聖書を学び、そして先輩の使徒たちからイエスの物語を聞いて、復活の信仰を確かなものにしていったのだと思います。
 カトリック教会の暦では、11月は死について考える時となっているそうです。また、最近、召された方の記念会、納骨式が続きました。そんなこともあって、このところフォーレとモーツァルトのレクイエムを聞いていました。モーツァルトは、自分の死を意識しながら、この作品を生み出していきました。天国を思っていたのでしょう。死という最も大きな悲しみ、痛み、苦しみの果てにある天国を思うことは、復活のキリストのいのちに、今日生かされることです。
 死ぬべきからだのうちにある、光のように輝くイエスキリスト、また復活の命を証しする福音宣教は、私たちの内側から力を与えてくれる素晴らしい宝物なのです。

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。2コリント4:16


2016年11月13日 (日)

神の国は誰のもの マルコ10:13-16  2016.11.13

本日は、子供祝福式が行われました。古今東西、幼子や子供たちの成長を願い、祝福を祈願する営みがあると思います。日本では、七五三がそれにあたりますね。旧約の時代から、神様は人を祝福し、人もまた祝福を願ってきました。子供を祝福する日本の行事があるこの時期に、聖書に基づいて教会でも子供たちの祝福を祈る時を持ち、大人も改めて子供のようになることを教えられることは、とても意味のあることだと思います。
 本日の箇所は幼子をイエス様が祝福された物語です。イエス様のもとに連れていこうとした人達、たぶん親や大きなお兄さんやお姉さんたちがいました。ところが、弟子たちは彼らを叱り、子供たちをイエス様から遠ざけたというのです。イエス様は疲れておられ、これ以上負担をかけたくないという善意から出たことだったかもしれません。ところがそんな弟子たちの行動を見て、イエス様はたいそう憤られたのです。かなり強い感情を表す言葉が使われています。イエス様は子供たちを祝福される前に、ひとこと言われました。「神の国はこのような者たちのものです。」と。これはどのような意味があるのでしょうか。
 この出来事と同じようなことが、以前にもあったのです。マルコ933-36に記されています。これは、誰が一番偉いのだろうかと論じ合っていた弟子たちを諭すために、一人の子供を抱いて弟子たちを諭された物語です。子供のような小さい者を受け入れることが大切なんだということが、イエス様の教えようとしておられたことでした。
 ここと同じ物語が、マタイ18:114にも書かれています。マタイの方では、小さい者をつまずかせることは実に災いであり、そのような者は大きな碾き臼を首にくくりつけられて深い海に沈められた方がましであるとも、書かれています。イスラエルツアーの時、ここで語られている石臼を見ましたが、ロバなどの家畜によって引かれる石臼のことで、こんなものでくくられて海に落とされたら、間違いなく死んでしまうだろうなと感じました。大人たちは、まことに真剣にイエス様の言葉を聞き、それを受け止めなければ本当に死んでしまうのです。
 神の国にふさわしいものとは、子供のようになること、そして小さいものを受け入れることです。単に謙遜になるということではなく、何よりも幼な子が理屈抜きに親を信頼して安心感を持つように、どんな状況の何でも私たちの父である神様に信頼し、イエス様により頼むことです。そして自分のことだけでなく、他の人の祝福を祈り、実際にそのように接することです。神様からの祝福は、私たちにも与えられ、他の人にも分かち合うことができるものだからです。

悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。1ペテロ3:9


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