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2016年12月

2016年12月26日 (月)

あっ、鳥だ!

 丘の上の木々も葉を落とし、冬の装いとなっています。冬鳥も、やってくるようになりました。先日、求道者の庭に通じる戸を開けると、小鳥の群れが一斉にと飛びだちました。でも数羽、木の枝にしばらくとどまってくれました。あっ鳥だ、とおもったら、アトリだったのですね。スズメくらいの大きさで、リーゼントが特徴のかわいらしい鳥でした。
 来年は酉年、新しい世界に飛び出していきたいですね。良き新年を、お迎えください。

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2016年12月25日 (日)

主の貧しさによって豊かになる

 2016年12月25日は、降誕祭礼拝でした。ともに年間賛美を歌い、主の貧しさによって豊かにされることを、深く味わうことができました。

→https://www.youtube.com/watch?v=XPCzqFP2N_c&feature=youtu.be

キリスト者の富 2コリント8:6-9  2016.12.25

主イエスキリストのご降誕、クリスマス、おめでとうございます。この年の恵みを数え、新しい年に思いを向ける本年最後の一週間となりました。ある経済研究所のレポートによると、「今年の景気は持ち直し。先行きは緩やかな回復が続く」とありました。あなたの実感としては、いかがでしょうか。
 豊かさは経済だけによらないということは、いうまでもありません。はたして私たちは、今本当に豊かになり幸福なのだろうかと、思わず考えずにはおられない一年でした。
 今年度の年間賛美は、2コリント8:9が中心になっています。「主は富んでおられたのに、あなた方のために貧しくなられました。それは、あなた方が、キリストの貧しさのよって富む者となるためです。」このみ言葉の文脈は、飢饉の中に置かれたエルサレム教会の信徒を支援するために、マケドニア教会の人たちが精いっぱいの献金をした、という出来事に基づいています。彼らは潤沢な富を持っていたのではなく、むしろ迫害の中で厳しい生活を送り、乏しい中で精いっぱいの献金をした、何よりも彼らの献金は神様にささげられたものであることを、パウロは知っていたのでした。お金に関わるまさにこの世の出来事を、イエス様の物語に重ね合わせ聖なる物語ととしている文脈なのです。
 あなたの生活、物語は、イエス様の物語に重ね合わされていますか。信仰と生活が分離されてはいませんか。聖書に書かれていることはきれいごとで、私の生活はそんなものじゃあやっていけない、などと言ってはいませんか。大切なことは、切れば肉が現れ、血を流すような生活の中にこそ、イエス様のみ言葉がその傷をいやしてくださることを経験することです。
 キリストの貧しさとは、その誕生、生涯、そして最期に表されています。身重になったマリヤを気遣って泊めてくれる宿はなく、家畜小屋の片隅の飼い葉おけに生まれたばかりのイエスは寝かされました。最期は十字架につけられ、人々の晒し者になって、極悪人として死なれたのです。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」ピリピ2:6-8とみ言葉にある通りです。 主のご降誕、クリスマスの神秘がここにあります。このことによって、イエスを信じる者は救われ、大いなる富をいただいたのです。貧しさの中にこそ富む道があることを、イエスキリストは示されたのでした。
 イエスより短い生涯を送った八木重吉の「貧しき信徒」という詩集に、次のような一句がありました。
神の道:自分が/この着物さえも脱ぬいで/乞食こじきのようになって/神の道にしたがわなくてもよいのか/かんがえの末は必ずここへくる 
 教員として希望に満たされた生活の中で結核に冒され、与えられた二人の子供たちを幼くして失い、早逝した重吉でしたが、残された詩集を持って今日もキリストにある祝福を証ししているのです。キリスト者の富は、私たちのために生まれてくださった、イエスキリストご自身であることを、降誕祭のこの日、豊かに味わいたいと思います。
 神様の祝福がありますように。


2016年12月18日 (日)

慰めの神にかなう悔い改め 2コリント7:5-13 2016.12.18

今年も残すところあと2週間。この頃になると一年を振り返る番組や、茶の間を楽しませるバラエティー番組が増えてくるように感じます。その一方で、お正月の番組が撮られているということで、一年の締めくくりと新しい年への期待が交錯する時となっています。
 教会歴では、本日が待降節第4主日、いよいよ主イエス様のご降誕を祝う降誕祭、クリスマスとなります。今年はクリスマスが日曜日ということで、4本+1本のクランツした方がいいのかな、それともろうそくの色を変えてみようか、などと考えているところです。
 日本では、除夜の鐘をついて煩悩を払い、清い清々しい気持ちで新年を迎えようとする人たちで、年末年始は大勢の人たちが神社仏閣に詣でます。確かにこの一年を振り返り、反省をし、新しい年への願いを立てるということは、誰もがする良いことではないかと思います。
 開かれている聖書のキーワードは、悔い改め、という言葉です。これは反省するとか、懺悔するとかという意味ではありません。元の意味は、方向を変えるということです。聖書の背景でいえば、自分勝手な人生を改め、神様の方に向いて進んでいくことです。滅びの道ではなく、救いの道に方向を変えるのです。ギリシャ語では、メタノイアと言います。この文字を反対から読むと、アイノタメ、愛のため、と読めますね。自己中心を捨てて、愛の神様の方向を向き、自分も愛をいただいて他の人にその愛を分かち合う者とされることです。この悔い改めは、悲しんで死に至るものと、神の御心にかなった悲しみのゆえに救いに至る悔い改めがあるとパウロは語っています。悔い改めは方向転換ですから、慣れ親しんだ方向から見ると、悲しいことでしょう。しかしそれは、救いと命に至るものなのです。神様があわれみ深い方であり、私たちを慰めてくださる方であることを知れば、悔い改めは、悲しみだけでは終わらないのです。
 結婚式だけでなく、葬儀でも歌われる讃美歌に、「いつくしみ深き友なるイエスは」があります。この作詞者である、ジョセフスクライブンは、二度にわたってフィアンセを失い、そのことを知ったお母さんは悲しみに暮れてしまうという経験をしました。しかし彼は、そのお母さんを慰めるために手紙を書き、この詩を添えたのです。お母さんは、本当に慰められたと思います。この詩を発見した友人が曲をつけ、教会で歌ったところ多くの人たちが感動し、そして讃美歌集に納められたということです。日本には、唱歌として明治の時代に伝えられましたが、讃美歌だったのですね。
 深い悲しみがあっても、慰め主である神様から来る悔い改めは、私たちをそこから救い、神と人を愛するために生きるものへと変えられるのです。

2016年12月11日 (日)

闇に輝く光  2コリント6:11-18  2016.12.11

「聖菓切る基督のこと何も知らず」 川柳かなと思わせますが、山口波津女の俳句です。12月24日のイブの夜の風景でしょうか、とりあえずクリスマスケーキを切って、きよしこの夜を歌い、クリスマスをお祝いしよう、でもその意味は良く知らないよ~、という多くの日本人が持つ思いを表した一句だと思います。
 日本語には、聖菓だけでなく、聖夜、聖歌隊、そして聖樹などという言葉あり、「聖」という漢字が使われます。クリスマスの祝いは年末ですので、この一年の心の塵を払って新しい年を迎えたい、そんな気持ちも相まって、聖という文字が使われるのかもしれません。クリスマスが過ぎれば、大みそかからお正月三が日にかけては、神社仏閣に出掛け、清々しい思いになって新しい年を送ろうと心に念ずるのです。人は心のどこかで、清い人になりたい、清い生涯を送りたいと願っているのではないでしょうか。
 聖書で使われている「聖、きよさ」には、もともと「分離する」という意味があります。穢れた物や事柄から分けること、関係ないものにすることが、きよさの始まりともいえるでしょう。教会で使う聖日ということばも、キリストがよみがえってくださったことを記念する日で、他の日とは違うことを表す言い方です。
 本日の箇所は、パウロがコリントの人たちに心を広くしなさいと語っていながら、ずいぶん了見の狭いことを言っているではないか、と思わせる文章です。6:13と7:2にあるように心を広くしてくださいという言葉にはさまれている個所なので、これは他の人が書いたのではないか、後に挿入された文章ではないか、という解釈があります。それほど、14-18は読む者に違和感を抱かせる言葉となっています。
 パウロの思いの基本は、人はその行いによって救われたのではなく、神様の恵みよること、そして自分と違う人を受け入れ、たとい未信者であっても共に過ごすことを勧めている、これがパウロの気持ちであることに変わりはありません(1コリント5:10)。しかしこれは、安易な妥協をすることを認めているのではありません。神は、罪に穢れたこの世に、そのひとり子であるイエスキリストを救い主として遣わしてくださいました。人として、マリヤを通して現れてくださったのです。それが、主のご降誕、クリスマスの神秘です。
 人が清い心になりたい、きよい日々を送りたい、けれどそれと真逆なような穢れた自分である。そこで私たちは、闇に輝く光であるお方に心を留め、おさなごイエスを拝した羊飼いや博士たちのように、私たちもイエス様に礼拝をささげるのです。私たちの心にイエス様をお迎えし、きよくしていただき、これまでとは違った生涯が始まるのです。
  「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」ヨハネ1:9


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