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2017年1月

2017年1月29日 (日)

キリストへの従順 2コリント9:1-11  2017.1.29

 カトリック教会では、修道者は三つの誓願を立てるということです。それは、貧しく生きられたキリストに従う清貧の誓願、神と人々に奉仕するために生涯独身の道を選ぶ貞潔の誓願、父である神のみ旨に従って十字架の死にいたるまで自分のいのちを与え尽くされたキリストの生き方に倣う従順の誓願です。私が接したカトリックの神学生、神父様たちは、この誓願を本当に生涯かけて守っておられると感じ、心から尊敬申し上げた次第です。
 本日のテキストは、パウロの筆遣いがガラッと変わる印象を受けるところです。その違いゆえに、9章までとは違う別の手紙が合わさったものではないか、とも言われています。1013章では、パウロが使徒であることを自らはっきりと語り、福音とは何かということをあらためて述べています。確かに相手を責めるような言葉使いになっていますが、読者がこの手紙によって自らを吟味し、教会が建てあげられることを願う深い愛から出たものでしょう。
 6節に従順という言葉が出てきます。5節からの続きであり、この従順というのはイエスキリストが父なる神に従順であったように、私たちもイエス様に従順であることを命じていると言ってよいでしょう。先に上げた三つの誓願は、聖書からきていると言ってよいのです。従順とは、従う品性を言います。時には、理不尽なことでも従わなければならいこともあるでしょう。盲従ではありませ。キリストの示した従順に倣うことが大切です。
 私たちの主の従順は、ここで改めて書く必要はないでしょう。しかし、主イエスの従順によって人は救われ、新しい人とされたということは、しっかりと心に留める必要があります

ヘブル 5:8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、

ローマ 5:19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。
 聖書には、イエスが人々に仕え、従順な生涯を送った物語があります。あなたはどの物語が好きですか?今日失われている徳の一つである従順を、キリストに倣って表していきたいと思います。

2017年1月15日 (日)

豊かに蒔くものは  2コリント9:6-15 2017.1.15

 新年あけまして、おめでとうございます。
 本日の箇所は、引き続き献金を扱ったパウロの言葉です。年明け早々に、礼拝説教でもお金の話なのか、と引いてしまう人もあるかもしれません。しかし、私たちの現実の生活に経済は欠かすことのできない要素であり、お買い物を初め、お金に関わることは外せませんね。私もだんだん老眼が進んできて、ヒャッキンのメガネをあちらこちらにおいているのですが、さすがに不便を感じ、ついに遠近両用のメガネを「初売り」で買いました。0が二つも多くなってしまいました。
 それはともかく、この箇所は、マケドニア教会の人たちが飢饉の苦しみにあるエルサレム教会の人たちを助ける献金を精いっぱいささげた物語から始まり、私たちの献金や経済生活についても適応できる、大切なことを教えている個所です。献金は神様への献げものであり、誰からも強制されるのではなく、私たち一人一人の自発的なものであり、心から喜んでなされるものです。具体的な金額は書かれていませんが、あることの必要のために、自分のできる精いっぱいの献金であることが勧められています。
 ここでは「蒔く」という言葉が使われています。蒔くものであれば、いつの日か刈り取ること、収穫の時があるのです。失うのではなく、時が来れば得ることができるのです。献金は、お金を失うことではないのです。後の日に、豊かな収穫が期待できるのです。ですから、ケチってはならないのですね。それは、文字通り財産が増え、経済的にも物質的にも祝福されることとなります。しかしながら、経済的に貧しくなってもなお豊かにされることがあるのです。
 落語に「三方一両損」という演目があります。3両のお金を落とした人と拾った人が、大岡裁きを受けるという内容です。3人が一両ずつ損をするという裁きが降るのですが、そこに人情を感じるほのぼのとした落語です。精いっぱいささげて、一見損をしているように見えてもなお、神様の祝福を受けることができる人は幸いです。
 また、蒔くという言葉は、聖書の中ではみ言葉の種をまく、宣教に関わる表現です。キリスト者の証しは、イエス様によって救われたことを自分の物語として隣人や他の人に語ることです。聖書を共に学ぶことは、み言葉の種まきです。キリスト者の務めは、宣教地を耕し、み言葉を蒔いていくことです。どんな労苦があっても、やがて豊かな刈り入れとなり、ともに喜ぶことができるでしょう。

「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」詩篇1265,6


 

2017年1月 7日 (土)

帰省 素敵な出会いが待っていた

新年明けましておめでとうございます。本年も、よろしくお願いいたします。

新年茶会の後、桜とニッキーを連れて上越に帰省いたしました。雪国体験をニッキーにさせたいと思ったのですが、市内に雪はなく、雪をいただいているはずの妙高山も雨のために見ることができませんでした。しかし素敵な出会いがいくつもあったのです!その一つが、キリシタン高札をいただいた遊心堂さんでのこと。ちょうど呈茶が始まるというので、招かれてお店に伺いました。小5のお嬢さんがお点前をし、甥っ子たちがお運びをし、奥様がお終いをするという見事な連係プレー。床には「福禄寿」の軸がかかり、お菓子は地元の翁飴、そして出されたお茶は上林詰め「大福」でした。とてもきれいなお点前で、おいしいお茶でした。呈茶後は子供たちとニッキーの英会話教室が自然と始まり、和やかなひと時となりました。期待以上の雪国体験に、彼女も大満足。締めは、食べログランキング第2位の「梅林」のかつ丼を食べて、心もお腹も満たされた帰省となりました。


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2017年1月 1日 (日)

新年のご挨拶

2017年、明けましておめでとうございます。

年末年始を、どのように過ごしておられるでしょうか?「昔は家族みんなで集まって、あんなこと、こんなことをしたな」と思っている方もあるでしょう。家族とは何か、などと考えさせられてしまうようなことが、早くも始まってしまうのです。

聖書正典ではありませんがシラの書に「子よ、年老いた父親の面倒を見よ。生きている間、彼を悲しませてはならない。たとえ彼の物覚えが鈍くなっても、思いやりの気持を持て。」とありました(シラ3:12,13)。今の時代だからこそ、心に迫ってくる言葉です。キリスト者は肉の欲求によって生まれたものではなく、聖霊による新生児です。キリスト者の集まりである教会は、父なる神様を中心とした家族と言ってもよいと思います。そしてその中の一人一人を結びつけるのは、神様の愛です。ここに、新しい家族の営みが始まるのです。

新しい年も、神の家族としての祝福がありますように。

「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」 コロサイ3:14


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