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2017年3月12日 (日)

私ではなく、キリスト  2017.3.12 2コリント12:1-10

人は自分に優れたところがあることを誇るものです。ところが面白いことに、否定的なこと、ネガティブなことを誇ることがあります。パウロの、自分の弱さを誇るというのは、どのような意味だったのでしょうか。
 本日の箇所は、とても面白ことが書かれています。いったいどういうことなのか、その出来事の詳細や、その意味を知ることはかなり難しい箇所です。言葉で言い表すことのできない、すばらしい経験だったのでしょう。
 この箇所の中心は、そのような経験をあえて誇っているパウロには、実は「刺」があり、それは自分を打つためのサタンの使いであって、自分が高ぶることの無いようにしていることなのです。小さな刺でも、処置を誤ると身体全体が悪くなります。パウロにとっての刺は、彼のからだと心に弱さを感じさせ、彼の心から誇りを奪うようなものだったのでしょう。
 このようなことの中で、パウロは弱さを誇り、弱い時にこそ神様の恵みがあって、実は強いのだということができました。9節にある「私の力は、弱さのうちに完全に現れるからである」という主の言葉を、自分のこととしていうことができたのです。自分の弱さを誇るとは、この自分の中にいる主、キリストを誇ることなのです。なぜなら、私たちの主こそ、人々から顔を背けるほどさげすまれ、あざけられ、人としてもっとも弱さをその身におった方、誇るところなどどこにもないお方だったからです。鞭打たれ、引かれていったイエス様は、街の郊外にあるゴルゴタの丘の上で、十字架に張り付けられたのでした。誇るべき姿は、そこにはありませんでした。このお方を誇ることができるのは、ただただ私たちが弱さを感じ、そこからすくい出してくださったのが主イエスキリストであるという、主を愛する思い以外にはないのです。
 自分の弱さを誇っているようで、実は自分を誇りとすることがあります。信仰による働きのように見えるのですが、実は「それはがやったのだ」と思っているのです。そのことは熱心さのゆえに本人には見えないのですが、他の人からは見えるのです。わかってしまうのです。ちょっと怖いことではありますね。自分のことを誇るのでもなく、恥じるのでもない。つまり、ありのままでいいわけです。名刺の肩書が無くなっても、あなたであることには変わりはないのです。自分の弱さを誇るとは、弱い自分の中にいてくださるキリストを誇ることであり、それこそが人を生かす道なのです。

詩篇115:1 私たちにではなく、【主】よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。


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