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2017年3月

2017年3月25日 (土)

信仰の吟味  2コリント13:1-11  2017.3.26

1,2節には、パウロは自分の弱さを語りつつも、うちにいてくださるキリストの強さを証しし、このキリストを誇ることこそわが人生、そしてその証言をしてくださるのは、伝道によって救われた多くの人たちであることを、思い起こさせようとしています。35節では、パウロはコリントの人たちから吟味を受けているわけですが、ここに至って、あなた方も自らを試し、吟味するよう命じています。この箇所と同じ「吟味しなさい」という訳では、聖餐式の式文にも取り上げられている1コリント11:28に見られます。「ですから、一人一人が自分を吟味して、その上でパンを食べなさい」とあります。6-10節のみ言葉は、パウロは失格者でないことを表明し、コリントの人たちも失格者になることが無いよう願っている彼の思いやりの心を感じるところです。そして1112節で手紙を結ぶにあたり、パウロはコリントの人たちの弥栄を願い、祝福を祈っています。13節は、教会の礼拝における祝祷に使われている言葉です。コリントの教会の人たちを祝福するパウロの思いは、今日も祝祷という形で教会に受け継がれているのです。
 さて、私たちの主イエスは、どのような言葉をもって信仰の吟味を促しているでしょうか。その物語は、ヨハネ21章に見ることができます。「あなたはわたしを愛しますか」これがイエス様の問診、問いかけなのです。信仰吟味の言葉なのです。かつて、イエス様は、ピリポカイザリヤにおいて、あなた方はわたしをだれだというか、と尋ねられました。ペテロは皆を代表するかのように、「あなたは生ける神の御子キリストです」と答えました(マタイ16:16)。立派な信仰告白です。これはどちらかといえば、知的な問いかけといえるでしょう。しかしよみがえられた主は、心を探る問いかけをしているのです。イエス様から「わたしを愛しているか」と聞かれたなら、ペテロは「わたしはあなたの信頼を裏切りました」としか答えることができないでしょう。しかし、ペテロは、「あなたはよく知っておられます」と答えます。イエスは、ペテロに対して「私の羊を飼いなさい、わたしに従いなさい」と言ってくださいました。ガリラヤで聞いた弟子としての招きの言葉が、再びペテロは聞いたのです。ペテロの第2の召命となりました。イエス様のペテロに対する愛も、召命も変わっていなかったのです。

私たちの信仰を吟味する言葉は、ただ一言なのです。たくさんの言葉でイエス様は、聞かないのです。あなたの名前を呼びただ一言「あなたは私を愛しますか」と今も問うておられます。この問いかけによって、私たちも日々信頼をいただいています。イエス様からの信頼とは、ただあなたを愛することなのです。信仰の吟味を問うイエスのことばに、私たちも応えていきたいと思います。


2017年3月19日 (日)

真の礼拝者として ヨハネ4:21-26  2017.3.19

               

丘の上記念会堂には、二つの庭があります。一つは復活の庭で、これから桜が咲けば園遊会と銘打って、お花見ができます。もう一つは日本庭園で、求道者の庭と名付けられています。 42:1 「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」のみ言葉が基になっています。本日の聖書箇所は、一人の女性が井戸に水を汲みに来てイエス様と出会った場面です。のどの渇きを潤す水を求めてきたのですが、もう二度と組みくる必要のない、いのちの水を湧き出させてくださるお方との出会いの物語です。

人は祈り、神様を礼拝するものでした。アダムとエバが造られたとき、彼らは神様と会話することができる存在として描かれています。これは、他の生き物と違い、人はその霊において神と交わることができる、すなわち祈ることができる存在であることを示している物語です。イエス様はここで、時間や場所、民族や性別など、そのようなことに限られない礼拝があること、そしてそれにふさわしい真の礼拝者を神様は求めておられることを示されたのでした。

今日の礼拝のように、ともに集まって礼拝するようになったのは、教会が生まれてからでした。教会とは、ギリシャ語でエクレシアといい、「神によって召し出され、集められた者」という意味です。それは全キリスト教会に共通した理解です。

イエス様を信じて集まっている人々は、キリスト者、クリスチャンと呼ばれるようになりました。そして集まる時間も、場所も変わってきました。集まる時間、すなわち礼拝をささげる時は週の最後の日でなく、最初の日になっていったのです。場所も、神殿中心ではなく、ユダヤ人の会堂や家になってきました。十字架で死なれ、葬られたイエス様が、週の最初の日によみがえられたので、その復活を記念して集まるようになったのです。ですからその日を主の日、あるいは聖日と呼び、復活の主であるイエスキリスト様を礼拝する、これがメインになったのです。

ローマ12:1
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。


2017年3月12日 (日)

私ではなく、キリスト  2017.3.12 2コリント12:1-10

人は自分に優れたところがあることを誇るものです。ところが面白いことに、否定的なこと、ネガティブなことを誇ることがあります。パウロの、自分の弱さを誇るというのは、どのような意味だったのでしょうか。
 本日の箇所は、とても面白ことが書かれています。いったいどういうことなのか、その出来事の詳細や、その意味を知ることはかなり難しい箇所です。言葉で言い表すことのできない、すばらしい経験だったのでしょう。
 この箇所の中心は、そのような経験をあえて誇っているパウロには、実は「刺」があり、それは自分を打つためのサタンの使いであって、自分が高ぶることの無いようにしていることなのです。小さな刺でも、処置を誤ると身体全体が悪くなります。パウロにとっての刺は、彼のからだと心に弱さを感じさせ、彼の心から誇りを奪うようなものだったのでしょう。
 このようなことの中で、パウロは弱さを誇り、弱い時にこそ神様の恵みがあって、実は強いのだということができました。9節にある「私の力は、弱さのうちに完全に現れるからである」という主の言葉を、自分のこととしていうことができたのです。自分の弱さを誇るとは、この自分の中にいる主、キリストを誇ることなのです。なぜなら、私たちの主こそ、人々から顔を背けるほどさげすまれ、あざけられ、人としてもっとも弱さをその身におった方、誇るところなどどこにもないお方だったからです。鞭打たれ、引かれていったイエス様は、街の郊外にあるゴルゴタの丘の上で、十字架に張り付けられたのでした。誇るべき姿は、そこにはありませんでした。このお方を誇ることができるのは、ただただ私たちが弱さを感じ、そこからすくい出してくださったのが主イエスキリストであるという、主を愛する思い以外にはないのです。
 自分の弱さを誇っているようで、実は自分を誇りとすることがあります。信仰による働きのように見えるのですが、実は「それはがやったのだ」と思っているのです。そのことは熱心さのゆえに本人には見えないのですが、他の人からは見えるのです。わかってしまうのです。ちょっと怖いことではありますね。自分のことを誇るのでもなく、恥じるのでもない。つまり、ありのままでいいわけです。名刺の肩書が無くなっても、あなたであることには変わりはないのです。自分の弱さを誇るとは、弱い自分の中にいてくださるキリストを誇ることであり、それこそが人を生かす道なのです。

詩篇115:1 私たちにではなく、【主】よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。


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