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2017年4月 2日 (日)

愛に生かされる  ヨハネ11:1-6  2017.4.2

 ベタニヤという村に、マルタ、マリヤ、そしてラザロという兄弟姉妹が住んでおりました。ラザロが病気になり、マルタとマリヤは治癒の願いを込めて、イエスに来てほしいと使いを送りました。イエスはラザロの死後に到着し、彼女たちに会い、既に葬られていたラザロを生き返らせるのです。イエスは、永遠のいのちについて語るだけでなく、実際にいのちを与えたのでした。

この出来事は、イエス様の生涯の最後の一週間に近い出来事です。受難のキリストの姿を私たちは知っています。イザヤ53にあるように、イエス様自身も病を負い、苦しむ人でした。この出来事は、イエスは病んでいる人ともにおられ、その病をいやす方であることをも示しています。病をいやすのは、祈りしかありません。本当の祈りとは、自分にギブアップして、すべてを神様にゆだねること、「主よ、みこころを成したまえ」ということだからです。文字通り私たちの人生最後の仕事は、死ぬこと、死事なのです。

マドリッドのサンタ・マリア・レアーレ大聖堂の香部屋にあるそうです。絵のタイトルは「黄泉への下降と復活」というものです。

この絵からは、罪人を救う神様の愛、病の人のために寄り添う、イエス様の姿を見るのです。イエス様がその愛のゆえに私隊を救ってくださったように、愛されている者の取るべき行動も、自ずと生まれてくるでしょう。人は、愛によって生かされるのです。

イエスキリストとの交わりは、できるだけ多くの苦しみを引き受けることではなく、イエスとともに、恐れないで神の愛に耳を傾けることに身をささげることです。いかに自分が神様に愛されているか、神様にとって自分は大切なものであるか、ということを府に落とすことです。私たちはしばしば、苦しみの意味を知ろうとします。そしてそれは、「神の御心」という言葉で説明したくなります。しかしこれは、怒りや不満を呼び起こすこともありますし、正しいことでもありません。神の御心は、不幸な状況に貼るラベルのようなものではないのです。神は痛みではなく喜びを、争いではなく平和を、苦しみではなく癒しをもたらそうとしておられるのです。ですから、なんでも神の御心だと決めつけないで、痛みや苦しみの中にあっても、愛の神の存在、イエス様の愛をどこに見出すことができるか、進んで自分自身に問わなければならないのです。

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