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2017年4月

2017年4月30日 (日)

初穂となられたキリスト  2017.4.30 1コリント15:20-28

 

本日で、4月は終わりとなり、明日からは5月、皐月となります。この時期に降る雨のことを、穀雨、と言います。地上の穀物に実りをもたらす雨が降り注ぐ、という意味です。 本日の聖書箇所は、主イエス様の復活を、初穂に例えているところです。麦の穂が色づいていることを麦秋と言います。この場合の秋は実りという意味らしいです。ここでは、イエス様の復活を初穂に例えています。初穂というのは、その字のごとく、穀物の収穫で最初のものであり、それは神様にささげられた特別な物です。ここから穀物だけでなく、季節ごとに最初に取れるものを初物と呼び、また神様にささげるだけでなく他の人に分かち合ったりして、その喜びを共に感じるようになってきました。聖書の背景であるイスラエル社会では、初物をささげることは全体をささげることであり、自らの心を神様にささげることを意味していました。レビ23:10-14.

 実に、神様に造られた秩序ある美しい世界の営みが失われたのは、ほかならぬ人間によるのだ、というのが21節にある「死がひとりの人を通してきたように」と言う言葉の意味なのです。アダムとエバが、禁断の木のみを食べた、という出来事です。二人は、すぐ死んでしまったのではありません。これは霊的な死、神様との親しい交わりが切れてしまったことを言っているのです。木の実を食べた二人は、神様を避けて逃げ出し、隠れてしまったのです。
 初穂、初物は神様にささげられるものです。それと同じように、キリストも神様にささげられました。これは一度限りのことであり、イエスを信じる者はすべて、罪を赦される、きよめられるということでした。そしてそれは人間にだけとどまるのではありません。人の堕落によって失われた創造の秩序の回復、自然界の回復をも成し遂げるのです。ローマ8:22-23 復活に順番があるというのは、この世界の秩序が回復していく様を表しています。26節は、肉体の死を味わわないというのではなく、神様との生きた親しい交わりが回復されることです。肉体の死は人間の終わり、エンドではなく、愛する者と会える場所への門なのです。キリストは、全人類の初穂として父なる神様にささげられ、私たち人間だけでなく、神に造られたた世界の創造の秩序を回復してくださったのです。

引用聖句
レビ23:10-14 「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えようとし
  ている地に、あなたがたが入り、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を
  祭司のところに持って来る。祭司は、あなたがたが受け入れられるために、そ
  の束を【主】に向かって揺り動かす。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさ
  なければならない。あなたがたは、束を揺り動かすその日に、【主】への全焼
  のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊をささげる。その穀物のささげ物
  は、油を混ぜた小麦粉十分の二エパであり、【主】への火によるささげ物、な
  だめのかおりである。その注ぎのささげ物はぶどう酒で、一ヒンの四分の一で
  ある。あなたがたは神へのささげ物を持って来るその日まで、パンも、炒り麦
  も、新穀も食べてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々
  守るべき永遠のおきてである。
創世記1:31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良
  かった。夕があり、朝があった。第六日。
ローマ8:22-23  私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産み
  の苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をい
  ただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、
  すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

2017年4月23日 (日)

荒みから慰めへ  ヨハネ20:26-31  2017.4.23

本日の聖書箇所は、主イエスの復活から1週間たった日のできごとです。この出来事の中心にいる人物は、トマスという12弟子の一人です。後に「疑り深いトマス」と言われるようになるのですが、そのように言われるゆえんがここに記されています。イエスが復活され、初めて弟子たちにその姿を現したとき、彼はそこに居合わせませんでした。どんなに、ペテロやヨハネたちが「私たちは主を見た」と言っても信じなかったのです。そして「自分の目で、イエスが打たれた釘の痕、刺された槍の跡を見、自分の手でその傷にふれなければ、決して信じない」と言っていたからでした。
 この時、トマスの信仰は荒んでいたのです。イエス様と共にいた慰めと祝福の時は去って、彼の心は不信仰に陥り、全く荒んでいたのでした。信仰生活におけるすさみとは、神様の存在を遠くに感じる、あるいは神から見放されたと感じることです。神などいない、ということもあるでしょう。そして霊的なことでなく、この世の出来事や欲望に支配されてしまいます。その結果不安、不信、悲しさなど否定的な感情が起こります。信仰生活には慰めや恵みがありますが、荒みの時もあるのです。大切なのは、その時に正しく対処できることです。イグナチオ・デ・ロヨラの「霊操」には、荒みに対処する4つのことが書かれています。簡単にまとめると、第1は、決断したことを変更しないこと、第2は、決断を変えないというだけでなく、その決断をより一層熱心に行うこと、第3は、神様を遠くに思ったり、神の存在を感じられなくても、神がおられるとを意識すること。そして第4は、希望と忍耐を持つことです。
 
荒みから慰めへと変えられていく力があります。それは、上からのものであり、御子イエスが願い、父なる神が遣わしてくださる慰め主、もう一人の助け主である、聖霊なる神様でした。心荒んでガリラヤに戻った弟子たちは、主の約束を思い出して、エルサレムに帰ってきたのです。そこで彼は、聖霊が降り、聖霊に満たされることを待っていたのでした。
 主イエスは、弟子たちの不信仰を嘆かれ、また責められたのですが、彼らを見放したのではありません。偉大なミッションを授けたのです。全世界に出ていって、福音を宣べ伝える、というミッションです。
インドには、トマスという名前の男性が多いそうです。疑り深いトマスは宣教師としてインドに行き、そこで殉教したと言われているからです。トマスも他の弟子たちと同じように復活の証人としての生涯を全うしたのではないのでしょうか。私たちも心のガリラヤに、嵐が吹く時があるのです。そんな者に、イエスを信じていのちを得るようにと、今も語られている、これが主の復活1週間後に語られたメッセージなのです。


2017年4月 9日 (日)

平和と柔和への道 マタイ21:1-11  2017.4.9 

本日は、教会歴では「棕櫚の主日」と言われ、イエス最後の一週間である、受難週(カトリック教会では聖週間)に入ります。
 過ぎ越しの祭のために、大勢の人が都エルサレムをめざしていました。イエス様の一行は、
ベタニヤからベテパゲを通ってオリーブ山に向かい、東の門から、エルサレムに入りました。オリーブ山からは、エルサレムを一望することができ、ヘロデによって建てられた神殿の豪華さに、弟子たちは目を奪われました。この時、西からは時のユダヤ地方の王であるヘロデ・アンティパスもまた、ペレヤの宮殿から到着していたのでした。
 この二組のエルサレム入りを象徴するのが、その乗り物です。イエスは、ロバの子供、それもまだ一度も使われたことの無いロバに乗られました。人々は、棕櫚の葉を打ち振って迎え、自分たちの着物を道に敷きました。かたやヘロデ王は、軍馬に乗り、武装した兵士たちを伴ってきたはずです。ユダヤを治める王として、威風堂々と都に入らなければ、民衆に対して示しがつかなかったことでしょう。
 イエスの乗られたのがロバであったということは、イエスは戦争ではなく平和をもたらすために来られた方であること、そしてその後性質は、柔和な方であることの象徴でした。ゼカリヤの預言にあることが、成就したのです。


 ゼカリヤ9:9  シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。 
  あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、
  柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。
 
マタイ11:29  わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわた
  しのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが
  来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

 この原稿を書いているとき、米軍の巡航ミサイル50発以上が、シリヤの空軍基地に打ち込まれたというニュースが入ってきました。化学兵器を使ったことへのお仕置きなのでしょうか。世界のいたるところで緊張が高まり、私たちの国でも戦前はこうだったのかと感じさせるような空気が流れていると思います。私たちが平和と柔和の道を進むのか、それとも、争いと傲慢の道に進むのか。
 受難週の中で、私たちの道行きを確かめる必要があるのではないでしょうか。


2017年4月 8日 (土)

高田高校、おまえもか!

 中学校の保健体育の武道に、銃剣道が入れられるというニュースがあった。これを聞いて、母校である高田高校で、自衛隊の銃剣道の練習に学校の講堂を貸していることが問題になり、それを端緒に全校で議論起こり、結果、生徒心得の廃止、制服の自由化、これまでのような卒業式の廃止が決まったことを思い起こした。銃剣道の練習は取りやめられ、武器を取らないで平和を求めていこう、というようなことが話し合われたと思う。
 卒業式に関しては、1年生の時は、普通の卒業式、2年生は対話集会、そして自分たちの卒業の時は式典はなく、卒業パーティーということで、保護者の方々も一緒になって講堂で飲み食いした。卒業証書はクラスごとに担任から受け取り、それはとても良かったと思う。学生たちが自由に学園生活を送れるシンボルが、自由な服装であった。教育実習で母校を訪れた時、確かにみんな自由な服装をしていた。「お前らが好きな服を着られるようになったのは、俺たちのおかげだぞ」なんて、心の中でつぶやいていた。ちょっと、傲慢ですね。もっとも、げた履きが少なくなったのは残念だったが。

 その高田高校で、なんと「式服」導入を検討しているいうことを、ニュースで知った。その当時活発な議論の中にいた者としては、ちょっと寂しい気がする。人が自由に生きることが少しずつ狭められていると感じるこの時代の波に、むしろ抗うものであれ。あわせて、かつて議論したように、武器によらない平和を求める学校であってほしい。


2017年4月 2日 (日)

愛に生かされる  ヨハネ11:1-6  2017.4.2

 ベタニヤという村に、マルタ、マリヤ、そしてラザロという兄弟姉妹が住んでおりました。ラザロが病気になり、マルタとマリヤは治癒の願いを込めて、イエスに来てほしいと使いを送りました。イエスはラザロの死後に到着し、彼女たちに会い、既に葬られていたラザロを生き返らせるのです。イエスは、永遠のいのちについて語るだけでなく、実際にいのちを与えたのでした。

この出来事は、イエス様の生涯の最後の一週間に近い出来事です。受難のキリストの姿を私たちは知っています。イザヤ53にあるように、イエス様自身も病を負い、苦しむ人でした。この出来事は、イエスは病んでいる人ともにおられ、その病をいやす方であることをも示しています。病をいやすのは、祈りしかありません。本当の祈りとは、自分にギブアップして、すべてを神様にゆだねること、「主よ、みこころを成したまえ」ということだからです。文字通り私たちの人生最後の仕事は、死ぬこと、死事なのです。

マドリッドのサンタ・マリア・レアーレ大聖堂の香部屋にあるそうです。絵のタイトルは「黄泉への下降と復活」というものです。

この絵からは、罪人を救う神様の愛、病の人のために寄り添う、イエス様の姿を見るのです。イエス様がその愛のゆえに私隊を救ってくださったように、愛されている者の取るべき行動も、自ずと生まれてくるでしょう。人は、愛によって生かされるのです。

イエスキリストとの交わりは、できるだけ多くの苦しみを引き受けることではなく、イエスとともに、恐れないで神の愛に耳を傾けることに身をささげることです。いかに自分が神様に愛されているか、神様にとって自分は大切なものであるか、ということを府に落とすことです。私たちはしばしば、苦しみの意味を知ろうとします。そしてそれは、「神の御心」という言葉で説明したくなります。しかしこれは、怒りや不満を呼び起こすこともありますし、正しいことでもありません。神の御心は、不幸な状況に貼るラベルのようなものではないのです。神は痛みではなく喜びを、争いではなく平和を、苦しみではなく癒しをもたらそうとしておられるのです。ですから、なんでも神の御心だと決めつけないで、痛みや苦しみの中にあっても、愛の神の存在、イエス様の愛をどこに見出すことができるか、進んで自分自身に問わなければならないのです。

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