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2017年5月21日 (日)

罪の世にあっても  創世記4:8-17  2017.5.21

アダムとエバに、二人の子供が生まれました。長男はカインと名付けられ、弟の方は、アベルと名付けられました。ある日、二人はそれぞれに祭壇を造り、神様にささげものを持ってきました。アベルは羊の初子、それも最良のものをささげました。兄のカインは、畑の作物をもって来ました。そして同じように祭壇に乗せ、神様にささげたのです。神様はアベルの献げものは受け取りましたが、カインの献げものは受け取りませんでした。
 聖書によると、神様はカインの心が悪かったようです。憤った彼はある日弟を野に誘い出し、これを殺してしまうのです。この物語は、人はアダムの堕落依頼罪を持っており、罪の結果をその身に招くことを表す物語です。罪の結果、人はこの地を正しく治めることができず、労働しても収穫を上げることが難しくなりました。地上が呪われてしまったのです。このことをパウロは、被造物全体がうめきともに産みの苦しみをしている、と表現しています(ローマ7:24)。また彼自身は、地上において、さすらい人(vagabond)となってしまったのです。迷える羊の姿(イザヤ53)なのです。
 このようなカインでしたが、神様の守りがあります。彼は誰かに殺されるという恐怖心に駆られていましたが、殺されることの無いように、一つのしるしを与えられたというのです。それが具体的にどのようなものであったのかは不明です。映画「天地創造」によれば、額にピッと星形が入れ墨のように、あるいは一つの傷のように描かれていました。私は、カインが弟を殺した人物であることを、誰も知ることがなかったということだとおもいます。いわば、娑婆にいても前科者であることがわからなかった、ということです。確かにカインが叫んだように、人の咎は大きすぎてにないきれません。パウロが「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と叫んだことと同じです。しかし、このあと、パウロは続けてこういうのです。「私たちの主イエスキリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(ローマ7:24,25)
 最後のアダム、すなわちキリストは、私たちの罪を贖う方として来てくださいました。十字架と復活が、私たちを罪から守り、死の苦しみから解放してくれるしるしとなったのです。罪ある者ではあるが、神の守りがあることを感謝し、目を神様に向けて進んでいきたいのです。
 
コロサイ1:13,14「 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」


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