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2017年5月

2017年5月28日 (日)

捕らわれから解放へ  2歴代36:17-23 2017.5.28

福音劇場の第3幕は、長いイスラエルの歴史に関わっています。旧約聖書の、創世記12章から最後のマラキ書まで、すべての書に記されています。マタイ1:1から、アブラハムから始まり、イエスキリストの誕生までが系図として書かれています。14代ずつにまとめられています。ここに、バビロン移住と言う言葉が出てきます。ダビデ王の跡を継いだのは、その子ソロモンでした。彼が王になった時、王国は最も大きくなりましたが、ソロモンの死後王国は北と南に分裂し、初めに北王国イスラエルが滅び、そのあと南王国ユダも滅びました。北王国には10のイスラエルの部族がいたのですが、消えた北の10部族、などと言われています。これは、隣国アッシリヤによる捕囚です。南王国ユダは、新バビロニア帝国に滅ぼされ、この時、ユダの王がバビロニアに連れて行かれたのです。これを、バビロン捕囚と言っています。その後、新バビロニアを滅ぼしたペルシャ帝国の王、クロスによって解放されるまで、異国の地にとらわれていたのでした。王宮や神殿は破壊され、都は略奪されました。王様は目をえぐられて引かれていき、子供たちは殺されました(2列王25)。しかし移されたユダの人たちの多くは、そこで生活をすることができました。また、連行されていった人たちの跡地は他からの入植が内容に守られたので、後にユダの人たちが戻ってきたとき、それまでの生活を回復することができたのです。ちなみに、バビロン捕囚後はユダ王国の中心であったユダ部族が国の民として存続し、それがゆえに、イスラエルの人たちはユダの民、すなわちユダヤ人と言われるようになったのです。バビロンにとらわれていた時の、ユダの民の思いは、詩篇に表されています。「國破れて 山河在り 城春にして 草木深し」で始まる、杜甫の漢詩と似た風景がそこにあるような詩篇です。
 その一つが詩篇137篇です。バビロン捕囚は、確かにイスラエル民族、ユダヤ人にとっては辛い出来事でした。しかし、神殿を破壊されたユダヤ人は、会堂中心の礼拝に移っていきましたが、神様への信仰を貫き、ユダヤ人としてアイデンティティーはむしろ強くされていきました。第3幕のラストシーンは、彼らの帰還、戻ってくるところで終わるのです。詩篇126篇をご覧ください。苦難の中でこそ、神様を信じ、そこから解放されるという希望を持つ、これが福音の第3幕のメッセージです。私たち主は、苦難の中で中にある人を心に掛け、そこから希望を持って進むことができるように、まずご自身が十字架にかかるという苦難の道を歩んでくださったのです。 
 ガラ 5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

引用聖句
詩篇137篇 1 バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出 
  して泣いた。2 その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。3 それは、私たちを捕 
  らえ移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、
  興を求めて、「シオンの歌を一つ歌え」と言ったからだ。4 私たちがどうして、
  異国の地にあって【主】の歌を歌えようか。5 エルサレムよ。もしも、私がお
  まえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。6 もしも、私がおま
  えを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、
  私の舌が上あごについてしまうように。7 【主】よ。エルサレムの日に、「破
  壊せよ、破壊せよ、その基までも」と言ったエドムの子らを思い出してくださ
  い。8 バビロンの娘よ。荒れ果てた者よ。おまえの私たちへの仕打ちを、おま
  えに仕返しする人は、なんと幸いなことよ。9 おまえの子どもたちを捕らえ、
  岩に打ちつける人は、なんと幸いなことよ。

詩篇126:1 【主】がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。2 そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「【主】は彼らのために大いなることをなされた。」3 【主】は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。4 【主】よ。ネゲブの流れのように、私たちの繁栄を元どおりにしてください。5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。


2017年5月21日 (日)

罪の世にあっても  創世記4:8-17  2017.5.21

アダムとエバに、二人の子供が生まれました。長男はカインと名付けられ、弟の方は、アベルと名付けられました。ある日、二人はそれぞれに祭壇を造り、神様にささげものを持ってきました。アベルは羊の初子、それも最良のものをささげました。兄のカインは、畑の作物をもって来ました。そして同じように祭壇に乗せ、神様にささげたのです。神様はアベルの献げものは受け取りましたが、カインの献げものは受け取りませんでした。
 聖書によると、神様はカインの心が悪かったようです。憤った彼はある日弟を野に誘い出し、これを殺してしまうのです。この物語は、人はアダムの堕落依頼罪を持っており、罪の結果をその身に招くことを表す物語です。罪の結果、人はこの地を正しく治めることができず、労働しても収穫を上げることが難しくなりました。地上が呪われてしまったのです。このことをパウロは、被造物全体がうめきともに産みの苦しみをしている、と表現しています(ローマ7:24)。また彼自身は、地上において、さすらい人(vagabond)となってしまったのです。迷える羊の姿(イザヤ53)なのです。
 このようなカインでしたが、神様の守りがあります。彼は誰かに殺されるという恐怖心に駆られていましたが、殺されることの無いように、一つのしるしを与えられたというのです。それが具体的にどのようなものであったのかは不明です。映画「天地創造」によれば、額にピッと星形が入れ墨のように、あるいは一つの傷のように描かれていました。私は、カインが弟を殺した人物であることを、誰も知ることがなかったということだとおもいます。いわば、娑婆にいても前科者であることがわからなかった、ということです。確かにカインが叫んだように、人の咎は大きすぎてにないきれません。パウロが「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と叫んだことと同じです。しかし、このあと、パウロは続けてこういうのです。「私たちの主イエスキリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(ローマ7:24,25)
 最後のアダム、すなわちキリストは、私たちの罪を贖う方として来てくださいました。十字架と復活が、私たちを罪から守り、死の苦しみから解放してくれるしるしとなったのです。罪ある者ではあるが、神の守りがあることを感謝し、目を神様に向けて進んでいきたいのです。
 
コロサイ1:13,14「 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」


2017年5月 7日 (日)

創造のみわざ 創世記1:24-31 2017.5.7

 福音とは良き知らせ、グッドニュースです。主イエス様を信じればどんな人でも救われ、神の子供とされるという約束です。この約束は、神の救いの物語の中にあります。それは、例えれば6幕からなる劇のようなものです。本日はその第1幕である、神による創造のみわざです。
 創世記1章にある大切な言葉は「種類に従って」という言葉です。これは生物学的な分類を表す「種」とは違います。植物、動物が造られていったときに用いられています。今日でいう1週間の中で宇宙の営みが出来上がり、種類に従って私たちの住んでいる地球の生き物が存在するようになったことは、この世界に秩序があることを示しています。この宇宙には一定の法則があり、生き物ものそれぞれの環境に適応し、子孫を残すためにうまく機能するようにできていることは、現代のサイエンスによって明らかにされています。聖書は、私たちが見える世界も、見えない世界も含め、すべて神様の創造のみわざである、とかたっているのです。
  創世記1:1 初めに神が天と地を創造した
 第6日目の創造のハイライトは、人間の創造です。神のかたちに造られた、と記しています。これは、私たちが人格や霊性を備えているということです。ただ人間は神様ではないので、神のかたちを完全に表すことはできません。次回のテーマになりますが、神のかたちに造られ人間は、罪によって本来の姿とはかけ離れたものとなってしまいました。それでも人は神のかたちに造られている、ここに人間としての尊厳、一人一人がかけがえのない存在であることの根拠があるのです。
 また、人は神様によって造られた世界を治める者としての責任を与えられました。これもまた、他の生き物とは違うところです。オーナーである神様の思いを知って、正しくこの世界を治め、収穫物を神様にささげるという、忠実な管理人としてこの地球に置かれたのです。これもまた、創造の秩序の一つなのです。しかし罪を犯した人間は、この点においても神様の思いとかけ離れてしまい、自分勝手にふるまうことによって他の生き物だけではなく、人間の世界にも様々な害をもたらすようなことを平気でするようになってしまったのです。パウロはそれを、被造物のうめきとして表現しています(ローマ8:19-22)
造られた世界は、「それは非常に良かった」とあります。
 神様による創造のみわざが終わった時、この世界には秩序があり、人は正しく造られた世界を治め、讃美歌に歌われているように、とても美しい世界だったのです。誰から見ても、美しく見える世界だったのです。神様の造られた創造の秩序に立ち返ることが、この世界の回復、そして私たちの生活が整えられていくことにつながっていくと確信するのです。


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