フォト
無料ブログはココログ

« イエスをだれというか  マタイ10:13-20  2017.7.23 | トップページ | 剣か鋤か  イザヤ2:1-5 2017.8.6 »

2017年7月30日 (日)

祈りの家としての教会  マタイ21:12-17  2017.7.30




教会とは何か、それは先週最後にお話ししたように、それは祈りの家です。家ということは、ファミリー、神様の家族だということですね。今から110年前に書かれた絵に、「朝の祈り」というものがあります。今では見られなくなった赤くて丸いちゃぶ台を囲んで、お母さんと、学生と思われるお兄さんを筆頭に、4人の子供たちがお祈をしている絵です。なぜか、此方を向いている猫が描かれています。お兄さんは、大きな聖書に手を置いています。この絵は、宮城で生まれ、北海道札幌で生涯の大半を送った画家、林竹治郎の作品です。彼は、キリスト者であり、画家であるとともに中学校の教師でした。この絵は、彼の家庭礼拝をモデルにしたものと言われ、お母さんの膝に伏すように祈っている、ひょっとして寝ているのかもしれませんが、小さな子供は後に医者となり、当時のハンセン病の人たちに生涯をささげる人となります。父である竹治郎は、自分の絵を売って、彼の働きを支えたということです。この絵は、キリスト者の家庭、そして教会の中心は、礼拝である、共に祈ることであることを良く表していると思います。札幌の北海道立近代美術館にあるそうで、いつかお目に書かれるのではないかと期待しております。ご存知のように、1世紀教会が生まれた時は、今日のような教会堂はありませんでした。家が教会であり、キリスト者が、二人でも三人でも集まるところが教会だったのです。










  1テサロニケ5:1618
   「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことに感謝しなさい」
  ヨハネ2:19 「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよ 
    う。」ヨハネ2:21 「イエスはご自分のからだの神殿のことを言われた」と
    いうことでした。
  ローマ12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえ
    に、 あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れら
    れる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊
    的な礼拝です。
  イザヤ56:7 わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの
    家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わた
    しの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼
    ばれるからだ。エレミヤ7:11 わたしの名がつけられているこの家は、あな
    たがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えてい
    た。


« イエスをだれというか  マタイ10:13-20  2017.7.23 | トップページ | 剣か鋤か  イザヤ2:1-5 2017.8.6 »

礼拝メッセージ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 祈りの家としての教会  マタイ21:12-17  2017.7.30:

« イエスをだれというか  マタイ10:13-20  2017.7.23 | トップページ | 剣か鋤か  イザヤ2:1-5 2017.8.6 »