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2017年7月

2017年7月30日 (日)

祈りの家としての教会  マタイ21:12-17  2017.7.30




教会とは何か、それは先週最後にお話ししたように、それは祈りの家です。家ということは、ファミリー、神様の家族だということですね。今から110年前に書かれた絵に、「朝の祈り」というものがあります。今では見られなくなった赤くて丸いちゃぶ台を囲んで、お母さんと、学生と思われるお兄さんを筆頭に、4人の子供たちがお祈をしている絵です。なぜか、此方を向いている猫が描かれています。お兄さんは、大きな聖書に手を置いています。この絵は、宮城で生まれ、北海道札幌で生涯の大半を送った画家、林竹治郎の作品です。彼は、キリスト者であり、画家であるとともに中学校の教師でした。この絵は、彼の家庭礼拝をモデルにしたものと言われ、お母さんの膝に伏すように祈っている、ひょっとして寝ているのかもしれませんが、小さな子供は後に医者となり、当時のハンセン病の人たちに生涯をささげる人となります。父である竹治郎は、自分の絵を売って、彼の働きを支えたということです。この絵は、キリスト者の家庭、そして教会の中心は、礼拝である、共に祈ることであることを良く表していると思います。札幌の北海道立近代美術館にあるそうで、いつかお目に書かれるのではないかと期待しております。ご存知のように、1世紀教会が生まれた時は、今日のような教会堂はありませんでした。家が教会であり、キリスト者が、二人でも三人でも集まるところが教会だったのです。










  1テサロニケ5:1618
   「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことに感謝しなさい」
  ヨハネ2:19 「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよ 
    う。」ヨハネ2:21 「イエスはご自分のからだの神殿のことを言われた」と
    いうことでした。
  ローマ12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえ
    に、 あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れら
    れる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊
    的な礼拝です。
  イザヤ56:7 わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの
    家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わた
    しの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼
    ばれるからだ。エレミヤ7:11 わたしの名がつけられているこの家は、あな
    たがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えてい
    た。


2017年7月23日 (日)

イエスをだれというか  マタイ10:13-20  2017.7.23

         

   

 本日のテキストの場所は、ピリポカイザリヤの地方とありました。この街と、丘の上会堂が建てられている所を思いめぐらすと、この場所はとても面白いところだと思います。この街は、ヘレニズム時代からパネイオン(ギリシア神話のパン神の聖所)がある場所で、アラビア語でパニアスと呼ばれていました。ヘロデ大王の息子ヘロデ・ピリポが町を整備して、地中海沿岸のカイザリヤと区別するために、カイサレエイアー・テース・ピリプー(ピリポのカイザリヤ)と呼んだのです。聖書では、ピリポ・カイザリヤということになっています。ざっくりいえば、ここは、ギリシャローマ神話に出てくる神々をまつったところであり、皇帝崇拝が色濃く残るところだったのです。
 さて、江戸時代には、教会前の通り(慈恩寺通)に面した田中家の庭に高札場がありました。日常的なことを告知する高札のほかに、切支丹に関する高札が立てられていたのです。キリシタン高札の2枚が、ロビーに掲示されています。その1枚は、正徳元年、1711年の高札です。これは、伴天連やイルマンをとらえた時の褒賞金が最も高額になった時の高札で、今でいえば、宣教師や牧師をとらえたり、彼らの居場所を教えたりすれば、たっぷりとご褒美がもらえた、ということです。もう一枚は、慶応43月の高札です。1868年、明治元年、つまり国が新しくなっていくまさにその時に立てられたものです。その内容は、キリスト教は邪宗であり、キリストを信じることは国家によって禁じられている、この二つのことは、新しい時代になっても変わらない、という告知です。高札は明治6年に撤去されるのですが、撤去の表向きの理由は、このような高札によって情報を伝達するのは旧くなったので改める、というものでした。キリスト教は禁止、というお触れは出しましたが、今後はキリスト教も認める、という通達は今日まで一度も出てはいないのです。それどころか、日本人の心情には、キリスト教は邪教であるという思いが、どこかにまだ刻まれているように思うのです。
 しかしそのようなところに教会でき、高札ならぬみ言葉が掲げられ、教会の鐘が時を知らせているのです。
教会は、この地にあって、祈りの場として開かれているのです。
 そして彼らに言われた。「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」と書いてある」   
                           マタイ21:13a


2017年7月16日 (日)

さあ、行ってらっしゃい  ヨハネ13:25-31 2017.7.16

 

先週の日曜日は、札幌の地で礼拝をささげてまいりました。その前日、78日には、中西健彦兄と桜の結婚式が行われ、教会の皆様のご奉仕と、神様の恵みに支えられて、祝福のうちに終えることができました。心より感謝をいたします。

 式場への入場に際し、娘と腕を取ります。そして新郎に差し出す時、すなわち、娘が腕を離すまさにその時、私の口から出たのが「行ってらっしゃい」という言葉でした。「はい」と言って、桜は前に進んでいき、健彦さんと一緒になりました。それを見届けて、私は新婦父の場所に移動いたしました。思わず出た言葉が「行っていらっしゃい」という言葉だったのです。その晩、改めてこの出来事を黙想いたしました。そこで気づかされたのは、これはイエス様の言葉であり、私にも言われている言葉であり、すべての人に言われている、派遣者であるイエス様の言葉であるということです。主が遣わしてくださる所は、たといどのようなところであっても主の守りがあり、苦しみの時には、その苦しみさえも歓迎して祈ることができるのです。

ヨハネ17:18 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に
   遣わしました。
 ヨハネ17:15 
彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、
   悪い者から守ってくださるようにお願いします。
 コロサイ1:13 神は私たちを暗闇の圧制から救い出して、愛する御子のご支配
   の中に移してくださいました。



2017年7月 2日 (日)

新しい天と地  黙示21:1-8 2017.7.2

 死後の世界を描いた作品が、二つあると思います。天台宗の僧、源信による往生要集と、イタリアの詩人ダンテによる神曲です。ともにその時代を生きていた人たちだけでなく、後世の私たちにも大きな影響を与えています。


 聖書の描く終末の世界は、イエスキリストの再臨と密接に結びついています。それは私たちの知りたい、死後の世界のこととも重なります。神様は、すべてを新しくされます(14-5)
 以前のものは過ぎ去り、すべてが新しくされるのです。キリストを信じて人が新しくされるということは、聖書にはよく出てくる表現です。2コリント5:17には、私たちが新しくされること、コロサイ3:4には、新しくされた者はキリストの栄光のうちに現れるとあります。


2コリント5:17だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
コロサイ3:4私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。


 
新しくされた世界は、丘の上会堂の礼拝堂前部に描かれています。立方体で描かれた新しいエルサレム、ラッパの音と共にイエス様が再び来られること、花婿に花嫁が寄り添い、12人の天使たちが、それぞれの楽器をもって、二人を祝福している場面が右側にあります。 その時お会いするイエス様は、永遠のお方であり、万物の創造者であり完成者でもある方です。
 また、いのちの泉から水を汲んで、私たちの咽喉を潤し、渇きを取ってくださるお方です。そして私たちに勝利を得させてくださるのです。
しかしながら、新天新地に他に、どうやらもう一つの世界があることを8節は表しています。これが、聖書の示す神による裁きの場、地獄です。この辺りをミケランジェロの最後の審判図ではかなり生々しく描いていると思います。
 イエスキリストの再臨による新天新地が、このように描かれているのは、私たちが悔い改めるためです。使徒17:30
神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」とある通りです。悔い改めと信仰によって、神様がこの世界とあなたを造ってくださった関係に戻ること、交わりの回復がなされればよいのです。あなたと神様との親しい交わりの回復、他の人と交わり、かかわりの回復、そしてこの地の管理人として、自然界の中で、神の造られた秩序に従って生きるということです。


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