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2017年9月

2017年9月30日 (土)

チャリティー茶会と映画会

 お久しぶりの、日記、つぶやきです。

10月は、二つのビッグイベントです。詳しくは、「おしらせ」をご覧くださいね。

10月21日 第20回丘の上チャリティー茶会

10月22日 映画「母」上映会 春日部市民文化会館

映画「母」上映会

 にわかに起きた、衆議院解散、そして総選挙。私たちの国は、これからどこを目指して、どんな形になっていくのでしょうか?
 小説を通して、その時代を映し出し、人間の生きる権利を訴えた人に、小林多喜二という人がいました。「蟹工船」は、とくに有名ですね。彼のお母さんは、クリスチャンでした。その母を描いた小説「母」が映画化され、なんと、この春日部でも上映されることになったのです。山田火砂子監督から電話をいただき、そのことを知りました。同じ名前のよしみで、前売り券販売を協力させていただき、多くの方に観ていただきたいと願っております。10月22日、午前と午後、会場は春日部市民文化会館小ホールです。茶利茶会の後は、映画で秋のひと時を過ごしていただきたいですね。問い合わせ、前売り券の申し込みは、山田まで、お願いいたします!

こちらから→「eiga_haha.pdf」をダウンロード

第20回丘の上チャリティー茶会

 丘の上チャリティー茶会も、成人式、第20回を迎えることとなりました。これまで支えてくださった茶道の先生方、社中の皆様、そして何よりも毎回訪れてくださったお客様に、感謝あるのみです。今年は、10月21日の開催です。4つのお茶席と、講演は人間国宝の増村紀一郎先生、音楽はイタリア歌劇の、冨田千種さんという豪華なゲストです。お茶券は、残りわずかです。皆様のお越しを、お待ちしております。

こちらから→「charity_tea_ceremony.pdf」をダウンロード

2017年9月17日 (日)

神のことばを聞け  エゼキエル37:1-14

エゼキエルが見た幻は、谷間に散乱する骨、それも渇いた骨でした。彼がいたのは、バビロン捕囚で捕えられた、今日風に言えば移民のキャンプ場のような所でした。うち続く戦乱や自然災害によって死に、葬られることなくそこに打ち捨てられた人たちを思い起こさせる言葉です。この骨に向かって、預言の言葉を語った時、骨と骨が互いに音を立ててつながり、筋がつき、肉がつき、皮膚がその上を覆ったので。しかし彼らはまだ、生き返ってはいませんでした。そこに四方から息が吹いてきて、彼らの中に入ると、その骨は生き返った、というのです。その数がどれほどであったかわかりませんが、非常に多くの集団で、谷間全部が埋め尽くされるほどではなかったでしょうか。

ドライボーンズ」という黒人霊歌に、この光景が歌われています。ここに訳されている、霊と息は同じ聖書の言葉です。神の霊が、人を生かすのですね。そしてもう一つ、人を生かすものを取り上げなくてはなりません。それはくだんのドライボーンにも歌われている「おお神のことばを聞け」ということです。イエス様の言われた、言葉を引用してみましょう。マタイ4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

聖書は神様の息、霊によって書かれた書物です。霊感を受けた人たちが、それぞれの時代と文化のなかで、この書を書いたのです。キリスト教2000年の歴史の中で、聖書がいかに人々にいのちを与えたか、生きる希望を与えたか、それは言うまでもないでしょう。

神様のことばが、本当に生きたものとなるには、信仰が必要です。敢えて例えれば、信仰は私たちと聖書を結びつける、接着剤のようなものですね。

ヘブル 4:2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

エゼキエルが見た谷間の骨のように枯れきって、ばらばらな私たちの生活が、信仰によって組み合わさる時、真に生きるものとされることを味わいたいものです。

秋の日差しの中で、神様に生かされていることを味わってこの1週間を過ごしてまいりましょう。


2017年9月10日 (日)

主に望みをかける  哀歌3:22-24

本日のテキストの背景には、イエスラエルの歴史があします。サウロ、ダビデによって統一されたイスラエルの国が北と南に分裂し、その二つに分かれた国が、両方とも他の強大な国によって滅ぼされてしまったのでした。

22節にある「私たちが滅び失せなかった」ということは、直接的には、戦争の惨禍から生き延びた、ともいえるものです。
 22b-23a節は、戦争やバビロン捕囚から生かされてきたことを、神様の恵みとあわれみによると感じ、歌っているところです。
 23-24節は、この神様に対して、自分の全存在をかけて、神の真実さとそれを受けることの幸いを歌っています。「主を待ち望む」ということは、自分が滅びるのではないかという危機的な時でも、神様の助けがあることを信じつつ、懸命に一日一日をいきていくことの告白なのです。

8月下旬に東北被災地支援として、気仙沼を訪れました。そこで目にしたのは、気仙沼大島大橋と言われる全長356メートルの橋で、今年の3月にかけられたといいます。これから橋の工事や、インフラの整備が行われ、開通するのは2019年の3月の予定だそうです。半世紀以上前に、本土と大島を結ぶ橋を架けるという構想があったのですが、大震災に襲われてしまいました。しかし街の人たちは、この事業を復興のシンボルと位置づけ、ようやくここまで来たのです。私は「明日にかける橋」の歌を思い起こしました。私の持っているCDの歌詞カードによれば、サビの部分は「荒れた海にかける橋のように、僕はこの身を横たえよう」とありました。まさに、気仙沼の光景ではありませんか!本土と大島を結ぶ橋が架けられた、ということは、復興の象徴であり、2年後の完成を待ち望む希望の橋となったのです。 

聖書から見れば、イエスキリストが私たちに明日に導いてくれる、希望の橋となってくださったのです。その方を待ち望んで、今週も一日一日を大切にしていきたいですね。

1コリント13:13 
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。



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