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2017年10月

2017年10月29日 (日)

み言葉と恵みに立つ エペソ2:1-10  2017.10.29

  1517年10月31日に、マルティン・ルターはヴィッテンベルグの城教会の門に、95か条の提題を掲げました。グーテンベルグの発明した活版印刷により、この95か条の提題はおよそ2週間ほどでヨーロッパ全土に広がり、今日でいう宗教改革が始まった日と言われるようになりました。

 今年はこの出来事から500年目の節目の年となっています。ルターは、ヴォルムスでひらかれた神聖ローマ帝国の帝国議会に召喚され、自説の撤回を求められました。彼はそれを拒否し、そのとき叫んだのが「我、ここに立つ。」という言葉でした。この言葉は、信仰の自立を表す言葉として、今日良く使われていますが、どこに立っていたでしょうか。現代の私たちの立ち位置はどこなのでしょうか。宗教改革者たちが明らかにした聖書の真理は、私たちは神の言葉である聖書と、神の恵みの中に立つ、ということです。

ローマ1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
エペソ2:8-10 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

先週の説教と重ね合わせれば、永遠のいのちをいただくのは、人の行いによることでなく、神から来るものです。そして人は、命をいただいたものとしての行いがあるのです。行いのない信仰は、死んでいるのです。 ルターは、説教とドイツ語に聖書を翻訳することによって、このことを表しました。賀川豊彦は、貧しい人たちの中で暮らし、生協や労働組合などの立ち上げ、南桜井においては、農村時計の立ち上げに協力したのです。実社会の中で神の言葉と恵みを表そうとした人でした。

  21世紀の新しい宗教改革は、み言葉と恵みの中に一つとされるものであると思うのです。 

2017年10月22日 (日)

天に宝を持つ マルコ10:17-22  2017.10.22

この物語は、マタイ19:1630、ルカ18:1830にも描かれています。マルコの福音書では、この一人のある人が青年であり、多くの財産、富を持っていたところから、この物語は富める青年の物語と言われています。彼の質問は、17節にあるとおり、人が神様に救われるためには、何をしたらよいか、ということでした。私たちも、どうしたら天国に行けるか、仏教的に言えば、何をしたら極楽往生できるか、ということです。
 この青年に対するイエス様の最終的な答えは、21節にある、「あなたの持っている財産全部を売り払って、わたしについてきなさい」というものででした。この物語全体の文脈は、イエスの弟子となることです。彼は幼い時からりっぽを守り、道徳的に正しく生きてきたはずなのに、財産を売り払うことも、貧しい人への施しもできず、何よりもイエスの弟子として歩むことができなかったのです。まことに悲しい結末でした。あなたはこの物語をどのように読むでしょうか。
 この物語で、他の福音書にも記されているのは、「天に宝を持つ」ということです。
この個所は、新改訳第3版のように、「蓄える」という訳もあります。しかし新改訳2017のように「持つ」と訳したほうが、ギリシャ語原文に近いと思われます。蓄えるというと何かをして手に入れ、それを天国に預けておく、というようなイメージですが、 持つというと、地上でしたことがそのまま天で反映されるような感じを受けます。天とは、神の支配しておられる領域、神の臨在を感じられる世界です。天国に行けるという将来のことというより、キリスト者がこの地上にいるということとイコールであるといってもいいものです。しかも、私たちはすでに、素晴らしい宝を持っているというのです。


2コリント4:7  私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。


 
過日、ブラジルから来られた妻のお姉さん夫妻とともに、奥日光の秋を見に行ってまいりました。その帰りに、富弘美術館に立ち寄りました。ブラジルのサンパウロでも富弘展が開かれ、多くの人が観に行かれ、ぜひ本人が生まれ育ったところにある美術館に行ってみたい、ということでした。ご存知のように、富弘さんは体育の教師とした赴任しましたが、大きなけがをして、体の自由を奪われた方です。しかし富弘さんの絵と詩、ことばは、多くの人の心を打ち、希望や勇気を与えています。体の自由を失ってしまいましたが、キリストというかけがえのない宝を得たからではないでしょうか。
 彼もまさに、天に宝を持つ人であると思いました。


2017年10月 8日 (日)

怖がらなくていい 2017.10.8 野外礼拝 マタイ10:29-33

 本日のみ言葉は、ずばり、怖がらなくてよい、恐れなくてよい、というイエス様のお言葉です。

 かつて、イエスは、「心配しないでよい」ということを、自然界の中にあるものでお話しされました。
マタイ6:2628空の鳥を見なさい、種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることさえしません。けれども、あなた方の天の父がこれを養っていてくださるのです。野のユリがどうして育つのか、良くわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
 そしてさらに、イエス様はこうも言われたのです。「あなたがたは、鳥よりももっとすぐれた者ではありませんか。」「ましてあなたがたに良くしてくださらないわけがありましょうか。」と。確かに、動物や植物は神様に命をいただいたので、大切な生き物ですが、わたしたち人間は、神様に命をいただいただけでなく、神のかたちに造られた存在です。ご自分から私たちのために十字架かかって死んでくださり、わがままで自分勝手な私たちを赦してくださるほど、わたしたちのことを大切にしてくださったのです。

 どのくらい、神様は私たちのことを知って、大切にしておられるのでしょうか? 2羽の雀が1アサリオンで売られている、と書いてあります。このアサリオンというのは、イエス様おられた1世紀のローマのお金で、一番小さい単位でした。これ以上崩せないわけです。今の日本でいえば、1円ということです。二羽の雀は、もう分けることができない、とても小さな価値しかない、ということです。でも神様のお許しの中で、一生懸命生きているのですね。

 人間の髪の毛は、数えられません。でも神様は、ちゃ~んとご存じなんです。雀が神様のお許しの中で地に落ちるように、髪の毛が無くなるのも、神様のお許しの中のことなのです。病気などによって、ウイッグが必要になるなどという方もあるでしょう。そんな人であっても、神様の守りがあるのです。なぜなら、神様は私たちを愛し、守り、大切に思ってくださっているのです。

 では、
どのくらい私たちのことを大切に思っているのでしょうか、ちょっと想像してみましょう。そして、そして「大好きだ~」と言って、自分をハグしてみましょう。イエス様は、たぶんあなたが自分を抱きしめた以上に、私たちを愛してくださっているはずです。怖がらないで、賛美しながら、前に進んでいきましょう。

2017年10月 1日 (日)

神の働き人  ネヘミヤ2:17-20 

本日のテキストの歴史的な背景は、いのちのことば社の「聖書辞典」の年表を基にまとめると、以下のようになるでしょう。
 BC538 ペルシャ王クロスの命令により、バビロンからエルサレムへの帰還が始まる。
 BC536 神殿再建工事、始まる
 BC483 エステルの物語→ユダヤ人への迫害と解放の物語
 BC458 エズラの働き
 BC445 ネヘミヤの働き、神殿完成
 BC20頃 ヘロデ大王による神殿の修復

バビロンに捕らわれていたネヘミヤは、エルサレムの神殿が破壊され、都が荒廃していることを聞かされ、その心は大きな痛みに覆われました。杜甫に倣えば、「国破れて山河在り」、今風に言えば、ロスエルサレム神殿、といったところでしょうか。しかし彼は、エズラや同胞と力を合わせ、神殿を再建するのです。エゼキエルの預言にあった、二つの国が一つなることを実現させるには、破壊された神殿を再建し、そこで礼拝をおこない、神の言葉を中心とした生活を取り戻すことしかない、と確信したからです。神の働き人として、これを成し遂げたのでした。
 今の時代でも当てはまる、神の働き人とは、どのような人のことでしょうか。
 まず、
ネヘミヤには、痛みがありました。民の苦しみを、自分の苦しみとしたのです。この苦しみがなければ、それを何とか乗り越えようという思いにはなりません。
 また彼は、
神による確信を持っていました。神の宮である神殿の再建は、わが民族と一つにするためにどうしても必要なことである、その事業は神のみ心にかなっていることである、ならば、必ず神様が成し遂げてくださる、このような確信を持っていたのでした。
 何よりも、ネヘミヤは祈りの人でした。彼の祈りが、多く書かれています。天の神に、祈ったのです。祈りなくして、人はその働きをすることはできません。
 次に、これは実際的なことですが、実地調査を行いました。祈りさえあれば大丈夫だ、ということではなく、的を得た働きのために、現状を知ることは大切です。
 そしてイスラエルの民、皆がこれに参加しました。他の働き人を動員することができたのです。
 そして神殿が完成したとき、律法の書があらためて読まれ、それが彼らの生活を律するものとなったのです。神殿が外見だとすれば、中身もしっかり整えたのでした。

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