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2017年11月19日 (日)

新しい人を着る  マタイ22:1-14  2017.11.19

神の国を、婚礼の祝宴、今でいえば結婚披露パーティーに例えている場面です。私たちから見ると、招待者が来なかった人への仕打ちや、婚礼の礼服についての記述は、「ありえへん!」というようなことでしょう。しかし、旧約聖書にはここに書かれた出来事に似たような物語があり、現実離れするようなことではありませんでした。特に、エステル記にある王妃ワシュテが王の招きに従わなかったことは、おもしろいところです。
 マタイのたとえ話は、王である神様は、王子であるイエス様のとの親しい交わりにすべての人を招いている、しかし、本当にイエスとともに歩むものは少ない、ということを語っているたとえであると言えます。救いは人間の行いや功績によるのではありません。民族や出自、身分などの関係なくすべての人に神様の救いは与えられます。
 注目することは礼服を着るとか、着ないということです。誰彼となく招かれた人の中には、礼服を持っていない人や着ていない人がいたのは当然です。ですから、宴に入るために、主催者によって礼服が渡されました。宴席に礼服を着ていない人がいたということは、潜りで入って来たか、礼服を脱いでしまったということになります。王の問いかけにも答えなかったというのですから、この人の態度は王や王子を侮辱したことになります。このことは、救いを受けて神の国に入れられても、やがてキリストを捨ててしまう、あるいは、主に倣って歩まないことを意味します。この国でキリスト者として生きることは、他の国のクリスチャンのようにふるまうことではありません。キリスト教を着るのではなく、イエスキリストを着るのです。新しい人を着る、ということです。遠藤周作氏は自分の信仰に関することを「だぶだぶの洋服を和服に仕立て直す作業」と表現したそうです。
 私たちのいるこのところも神の国であるなら、ここにいるにふさわしい信仰の表現があるはずです。

エペソ4:22-24 
 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

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