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2017年11月25日 (土)

「信仰生活」あるいは「信仰と生活」 ドア(戸)を取っちゃおう

 本日の丘の上説教は、小野牧師です。中央で語る説教の中から、抜粋しました。

 宗教改革の時代は、ルネッサンス、文芸復興の時代でもありました。それはまた、神中心から、人間中心になる時でもあったのです。ほかの言い方をすれば、信仰と生活が分かれてきた時代だったのです。
 かつて、私たちの国も、神仏を拝むこと、信仰することと生活は一つになっている時代がありました。戦国時代も、実はそうであったのです。現在、県立民族博物館で行われている「上杉家の名刀と35腰」「関東管領上杉氏と埼玉の戦国武将」を見に行ってまいりました。とてもよかったです。123日まで開かれていますので、行かれてみたらよいと思います。
 その図録の中に、上杉謙信の信仰についての解説がありました。謙信は、戦の神様ともいえる毘沙門天を信仰しており、戦の前には、毘沙門堂にこもり戦勝を祈願したということです。信仰と生活が、一緒になっていたといえるでしょう。この当時の人々の生活は神仏を信仰することと一つになっており、それは謙信に限ったことではない、とありました。良きにつけ悪しきにつけ、かつての日本人は、神仏を信仰することと生活が一つになっていたのです。なので、私たちの国に福音が伝えられたとき、この福音と自らの人生を一つに重ねる思考が、すでにあったのだと思います。
 現代社会は、お祭りや宗教行事を受け継いでいても、それは形だけになっていることが多いのです。地域住民との親睦や、コミュニティーつくりの一環となり、神仏を拝むことは、ほぼなくなり、その起源も忘れられてしまいました。しかし本来は、祭りや宗教行事は、人々の生活を作っていったのです。ざっくりいえば、信仰と生活が一つになっていたのです。信仰と生活が分離してしまっている、これが今の時代です。そしてキリスト者も時代の子なので、キリストを信じる信仰と、日々の生活が分離してしまったのです。せいぜい日曜日だけ、神様を礼拝する、奉仕の時だけイエス様に仕える心で頑張ろう、みたいなことになってしまうのです。
 あなたは、大丈夫でしょうか。一日24時間、一年365日、神様は私たちを愛し、恵んでくださっています。ならば、私たちもいつも、そしてどのような時でも、み言葉と恵みに立つ日々を送れるはずなのです。
 街にはクリスマスの飾りつけが、あふれています。教会にも、イルミネーションがつくことでしょう。でもそれは、ひょっとして形だけかもしれません。クリスマスツリーは、かのマルティンルターが、木の枝から見える美しい星の光を子供達に見てほしいとの思いで、切り出した木を家に入れて、ろうそくで飾ったところから始まったという説があります。星の光は、ルターを慰める神様からの贈り物だったのでしょう。6人誕生したわが子のうち、二人も失ったルターは、喜びの日も悲しみの日も、神を信じ、み言葉に立っていたのです。クリスマスの飾りは、彼の信仰を表すものだったのです。頭だけの信仰、生活と切り離された信仰ではなく、それは一つになっていたのですね。

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