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2017年12月 3日 (日)

神を待ち望む者 イザヤ64:1-12  2017.12.3

キリスト教歴では、今週から待降節となります。復活祭前の四旬節、受難週は「悔い改めと回心の時期」ですが、主イエスの御降誕前の待降節は、「愛と喜びに包まれた待望の時期」と言えます。イザヤ書63,64章は預言者イザヤの祈りです。彼は、紀元前8世紀、742年ごろから約50年間、預言者として活動いたしました。神の裁きと、民の悔い改め、苦難からの解放を願う祈りです。
 13節では、神の偉大さを、自然界の圧倒的な営みを通してうたっています。
 4節は、新改訳聖書2017の訳で読むと、「とこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。あなた以外の神が、自分を待ち望む者のために、このようにするのを。」となっています。こちらのほうが、原文の直訳に近いと思います。神を待ち望んでいる者に、神の介入があることを語っています。
 57節には、人間の罪、業の深さ、神がわからなくなっているような状態が描かれています。神道や仏教の示す人間の苦悩よりも、深刻な表現でしょう。
 8節は、祈りの転換です。神を陶器師と詩、人はその手の中にある土に過ぎない。しかし陶器師が自分の作品をいとおしむように、神は私たちを愛し、最も大切にしてくださっているのです。
 912節は、ひどい荒廃の中でも、神が目を留めてくださることを信じている、信仰によるとりなしの祈りです。
イザヤは、苦しみの中でも、神を待ち望む者の幸を語っている。   
 
イザヤ40:3031若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。
 
この神は、すでに来られたのであす。それが、主イエスの御降誕です。しかしそれで終わったのではありません。イエスがもう一度来られることを、聖書から教えられる、そのことを待っているのです。それゆえ今のこのときは、この現実の世界の中で神を待つことと、将来において神様が再びおいでになるという、二重に待つことを経験している時なのです。
 21世紀の私たちが待降節を持つ意味が、ここにあるです。それは、神に望みを置き、神に期待する、ということなのです。

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