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2017年12月

2017年12月31日 (日)

新しい旅の備え  マタイ2:13-23   2017.12.31

 今年2017年は、残すところ本日1日となりました。それぞれに、どのような年であったかを振り返り、何かしらの希望をもって新しい年を迎えようとされていると思います。
 光があれば、闇がある。陽があれば、陰もある。これは、天地創造の時からある神秘ではないかと、つくづく思わされます。
 この一年、良いことがあれば悪いこともあった、理不尽な訳の分からないこともあった、まさに私たちは、光と闇の中に置かれていると言っていいでしょう。
 主イエスの御降誕の物語には、光があります。世の光としてイエスはお生まれになったので、クリスマスは光の祭典ともいわれます。しかし、東方の博士たちが来た時の物語は、闇のようなお話です。ヘロデ王による、幼児虐殺が描かれているのです。考えようによっては、イエスが生まれたからこのようなひどいことが起きたのだ、クリスマスなどというのはけしからん、という話にもなりかねない出来事です。話を拡げて、これだから宗教は危ないのだ、ということになっていくでしょう。ここで詳しく書くことはできませんが、日本において秀吉、家康の時代に禁教令や鎖国に踏み切ったのには、キリスト教が入ってくるとこの国は戦乱に巻き込まれ他国によって無理やり支配されてしまう、ということがその理由の一つだと言われているのです。
 「キリスト教徒ではないからクリスマスはばか騒ぎができる」という趣旨の本を年末に読みました。外国のものを宗教抜きに取り入れ、ひいてはキリスト教がなかなか根付かいない日本人の精神構造が良く書かれていると思いました。たしかに、イエス誕生という光の中で、幼子が殺されるという闇のような出来事が起きました。しかしカトリック教会の暦では、1228日を「幼子の殉教者の日」としてこれを覚えているのです。また、あるキリスト教劇の台本にはこの出来事を取り上げる劇があり、そのタイトルは「最初の殉教者」となっています。
 大切なのは、この闇のような出来事、陰のことを忘れないことです。痛みとともに、そのことを受け止め、その中にある神様のみ心を悟ることです。私たちの気持ちを荒立たせるような出来事やニュースが、国の内外に多く聞かれるようになりました。ついつい、慌ててしまいがちです。このような時こそ主の言葉に聞いて、静かな心を取り戻して、新しい年、新しい旅の備えをしてまいりたいと思います。


  
1ペテロ4:74:7
 
万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさ  
 い。

2017年12月30日 (土)

新年もよろしく

 今年行われた、第20回丘の上チャリティー茶会は、あいにくの雨となりましたが、例年のように多くの方々がお見えになりました。それぞれの席が盛況で、講演も音楽も、心打つものでした。売り上げから春日部市社会福祉協議会に、5万円をお渡しすることができました。皆様のご協力に、心から感謝いたします。次回は、2018年5月26日です。春のお茶会となりますので、どうぞお楽しみに。
 また、翌日に行われた映画会「母」も盛況でした。同日選挙と重なりましたが、400名近い方が来られました。この時代に必要な、映画であったと思います。原作者の三浦綾子さんの、平和にかける思いが伝わってきました

新し年、主の平安が皆様に、そしてこの国にありますように。

2017年12月24日 (日)

ベツレヘムに生まれる  ルカ2:1-20  2017.12.24

主イエスの御降誕、おめでとうございます。

 

本日の説教題は「エルサレムではなく、ベツレヘムに生まれる」としたかったのですが、少々長くなり、説教題看板に入りきらないのではないかということで、掲題のようになりました。
 イエスは救い主として、また、系図によればダビデ王の子孫として生まれました。そしてダビデの町に生まれる、ということでした。旧約聖書では、ダビデの町と言えばイスラエルの都エルサレムのことです。ルカ2:4を原語の順番で並べると、「上った、ヨセフは、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのダビデの町に、そこはベツレヘムとよばれる」という風になるでしょうか。この個所の朗読を聞いていた人、あるいは読んでいたユダヤ人は、ちょっと「あれっ?」と思ったのではないでしょうか。つまり、ダビデの町は立派なエルムであって、あんな小さな町ではない、と思っていたのです。しかし実際羊飼いたちは、小さな町ベツレヘムへと急ぎました。新約聖書では、ダビデの生まれた町ベツレヘムがダビデの町と言われています。しかもイエスが寝かされていたのは、家畜小屋の飼い葉桶です。ダビデ王の子孫どころか、人が寝かせられるようなところではないでしょう。しかしそのようなところに、救い主はお生まれになったのです。クリスマスの神秘の一つは、このコントラストにあります。日本語でいえば、詫びでありさびの世界です。
 先週、ELC英会話クラスのクリスマス会をいたしました。その時、ある生徒さんが話してくれました。彼がイタリアに旅をしたとき、木製のネイティビティーをたくさん見たそうです。その中に、飼い葉おけがあり、その作品に惹かれたというのです。そこには、羊飼いも博士たちも動物もいません、飼い葉おけの中にはイエス様すらいないのです。飼い葉桶だけであったことが、良かったというのです。この話を聞いたもう一人の受講生が、これは悔い改め、リペンタンスですね、と言いました。私たちの心はいろいろな強欲でいっぱいになっている、でも悔い改めて空っぽになったところに、イエスが来てくださる、これがクリスマスのメッセージではないか、ということでした。まさにその通りですね。
 イエスは都でもなく、立派なベッドでもなく、小さな田舎の町に生まれ、汚い飼い葉桶に寝かされていた。貧しさの中にこそ、大きな富があることの象徴ですね。 

2コリント8:9
 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

 

2017年12月17日 (日)

神に望みを置く  マタイ1:18-25 2017.12.17

イエスキリストの誕生は次のようであった、とあるが、ヨセフの物語が書かれている。冒頭に、マリアの妊娠は、聖霊によることであることが分かったとある。どのようにして、ヨセフがそのことを知ったのか、ちょっとわからない。この書き方は、ヨセフの物語の全体をまとめて、表現しているように思われる。あるいは、マリアが自分の身に起こったことを告げたとも考えられるのである。
 ヨセフは初め、これを受け入れられず、マリアを気遣って離縁しようとした。彼は正しい人であったということだから、当時の律法を守ることと、マリアの身を案じることの板挟みになってしまったのだろう。
 天使のお告げを聞いたヨセフは、聖霊によってマリアは身ごもったということを理解し、一緒に住むようになった。結婚式を挙げてともに住むようになったのである。そして、住民登録のためにガリラヤからベツレヘムへの旅をはじめ、馬小屋でイエスが誕生したのであった。
 ここには、彼の決断とその行いによって、その信仰をみることができる。「信仰は行いによって全うされる」(ヤコブ2:22)とあるとおりである。彼はどのような決断をし、身を処したのであろうか。
 ユダヤの社会において、婚約は結婚と同じ意味。しかし、結婚式を挙げるまでは一緒に住むことはなく、その日までそれぞれのところで暮らしていた。当時の律法では、婚約中の女性が不義を働けば石打の刑に処せられた。いわば、姦淫の現場でとらえられた女性のように、人々から石を投げつけられてしまうのだ。そんなことはとてもできないと考えたヨセフは、この話は最初からなかったことにしようとして、ひそかに離縁しようとしたのであった。しかし、主の使い、天使が夢の中に現れ、彼は神様の言葉を聞いた。そこで、このたびのことは神様から出たことであると確信した。それゆえ彼はマリアを迎え、正式に結婚したのである。離縁しなかったのである。
 私たちの生活にあてはめてみよう。肉の欲求ではなく、聖霊によって導かれる生活があるのだ。神望みを置いているのなら、必ず神のみ心がなるのである。


 
ガラテヤ5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

水野源三 

一度も高らかに

クリスマスを喜ぶ賛美歌を歌ったことがない

一度も声を出して

クリスマスを祝うあいさつをしたことがない

一度もカードに

メリークリスマスと書いたことがない

だけどだけど

雪と風がたたく部屋で

心の中で歌い

自分自身にあいさつをし

まぶたのうらに書き

救いの御子の降誕を

御神に感謝し喜び祝う

 

2017年12月10日 (日)

御子を待つ備え  マルコ1:1-8  2017.12.10

 本日のテキストであるマルコの福音書は、イエスキリストの誕生の物語を描いていません。同じ福音書でも、マタイとルカには、降誕の物語が記されています。イエスの活動をテンポよく描き、その生涯を読者によくわからせようとしているように思います。
 13節には、預言書が引用されています。マラキ3:1とイザヤ40:3からの引用です。このヨハネ誕生の物語は、ルカ1:580に詳しく書かれています。長い間子供の生まれなかった祭司ザカリヤ夫妻に、男の子が生まれ、その誕生とイエスの母マリヤのかかわりが記されているのです。
 4-8節には、このヨハネの働きが書かれています。彼は荒野に住み、野人のような生活をしていたようです。彼は、ヨルダン川で、人々に悔い改めのバプテスマを授けていたのです。主イエスも、このヨハネからバプテスマを受けました。その様子は911に描かれており、他の福音書にも記されていることです。ヨハネは、イエスの先立ち、露払いとして現れたのでした。それは、悔い改めによって心を空っぽにし、救い主である主イエスを受け入れる備えをさせるためだったのです。待降節は基本的に救い主の誕生を心待ちにする喜びの日々ですが、悔い改めも含まれている期間と言えるでしょう。
 イエスの誕生に欠かすことのできない人物と言えば、それは言うまでもなくマリヤです。エリサベツが妊娠6か月を過ぎたころ、マリヤ立って、彼女のもとに向かいます。たがいにあいさつを交わしあとに言ったマリヤの言葉は、マグニフィカト、マリヤの賛歌と言われています。ルカ1:4655に記されています。ここでは、マリヤは普通の女性で、救い主の到来を待ち望んでいる者であることが告白されています。天地を造られた神様は、卑しい女性であるとして自らを低くするマリヤに目を留められたのです。ここに、彼女の信仰がよくあらわされています。
 来年度は、礼拝と交わりに集中する、という伝道牧会方針が示されています。神様を礼拝するという縦の線と、お互いに兄弟姉妹として共有する横の線、合わせれば十字架になるこの二つを大切にしようということです。その姿勢の一つが、マリヤにあります。キリストがおられる、私たちを見守ってくださっている、と意識することです。2017年の待降節、マリヤの持っていた御子を待つ備えを、私たちの備えとさせていただきたいのです。

 

2017年12月 3日 (日)

神を待ち望む者 イザヤ64:1-12  2017.12.3

キリスト教歴では、今週から待降節となります。復活祭前の四旬節、受難週は「悔い改めと回心の時期」ですが、主イエスの御降誕前の待降節は、「愛と喜びに包まれた待望の時期」と言えます。イザヤ書63,64章は預言者イザヤの祈りです。彼は、紀元前8世紀、742年ごろから約50年間、預言者として活動いたしました。神の裁きと、民の悔い改め、苦難からの解放を願う祈りです。
 13節では、神の偉大さを、自然界の圧倒的な営みを通してうたっています。
 4節は、新改訳聖書2017の訳で読むと、「とこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。あなた以外の神が、自分を待ち望む者のために、このようにするのを。」となっています。こちらのほうが、原文の直訳に近いと思います。神を待ち望んでいる者に、神の介入があることを語っています。
 57節には、人間の罪、業の深さ、神がわからなくなっているような状態が描かれています。神道や仏教の示す人間の苦悩よりも、深刻な表現でしょう。
 8節は、祈りの転換です。神を陶器師と詩、人はその手の中にある土に過ぎない。しかし陶器師が自分の作品をいとおしむように、神は私たちを愛し、最も大切にしてくださっているのです。
 912節は、ひどい荒廃の中でも、神が目を留めてくださることを信じている、信仰によるとりなしの祈りです。
イザヤは、苦しみの中でも、神を待ち望む者の幸を語っている。   
 
イザヤ40:3031若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。
 
この神は、すでに来られたのであす。それが、主イエスの御降誕です。しかしそれで終わったのではありません。イエスがもう一度来られることを、聖書から教えられる、そのことを待っているのです。それゆえ今のこのときは、この現実の世界の中で神を待つことと、将来において神様が再びおいでになるという、二重に待つことを経験している時なのです。
 21世紀の私たちが待降節を持つ意味が、ここにあるです。それは、神に望みを置き、神に期待する、ということなのです。

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