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2018年1月

2018年1月28日 (日)

神の裁きとあわれみ  ヨエル2:12-17  2018.1.28

 聖書の世界観を、あえて一言でいえば、世界の創造と裁き、と表されるかもしれません。創世記には、人間を含む世界の創造が記されています。この世界は神様の秩序があるゆえに、大変美しいものでした。しかし罪の故にそれは崩れ、不幸な世になってしまいました。陶器師が自分の作品を作り直すように、神様はこの世界を裁かれ、新しい創造をされました。黙示録に、その物語が記されており、それは未来の出来事です。
 古今東西、長い歴史の中で、人は自分たちの力を超えた存在によってこの世が裁かれる、何かしらの審判を受けると考えていたようです。キリスト教圏においては、それは聖書に基づいています。ミケランジェロの描いた「最後の審判」は、もっとも有名な作品と言えるでしょう。神様は裁きを下される怖い存在なのか、あるいは、今自分の身に降りかかっている禍はすべて神の裁きなのか、これは突き詰めると難しい問題で、回答を見出すのは困難なことであると思います。
 聖書は、創造者である神は、愛の方であるとのべています。しかし私たち人間は罪を犯してしまったがゆえに、そのことがなかなかわからないのです。1ヨハネ4:9「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」そのような私たちのためにイエスキリストが来られ、十字架にかかって私たちの代わりに神の罰を受け、ここに神様の愛が示されたのでした。そこに私たちは、感動するのです。
 預言者ヨエルが語ったのは、神は慈しみ深い方である、ということです。それゆえに、生きている時に私たちが心を変えて、神様に立ち返ることが必要なのです。神の裁きとあわれみは対立するものではなく、今ここにあるのです。神様に立ち返って今日という日を過ごすことが、神様のあわれみを知ることとなるのです。
 ローマ11:22見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。

2018年1月22日 (月)

市民講座とチャリティー茶会

 1月22日、大変な大雪ですね。といっても、雪国生まれの私には、どうということはないのでしょうか、関東にお住いの方は、とても大変であったと思います。お大事になさってください。

市民講座のお知らせです。
3月7日、午前10時、ふれあいキューブ。利休の好んだ色は赤と黒、その謎に迫ります。
「Shiminkoza25.pdf」をダウンロード

チャリティー茶会のお知らせです。
記念となる昨年の第20回目は、雨にもかかわらず、多くの方にお越しいただきました。今年は良い天候を願って、春に開催となりました。ゲストは、おづつみ園の尾堤宏さんのお話です。お楽しみに。
5月26日、午前9:30席入り
「charity_21.pdf」をダウンロード

2018年1月21日 (日)

福音の新しい味わい  マルコ2:18-22  2017.1.21

 本日の説教は、1月7日の説教を参照してください。それとともに、さらに新しい気づきが与えられました。福音の味わいは、私たちが今いるところがどのような状況であったとして、新しく味わうことができるものです。悲しみや苦しみの中にも、神様がおられ、自分を導いてくださっていると知ることができるのです。

 み言葉と、参考資料を書いておきます。広辞苑の第7版が発行されました。私が学生時代に手にした第2版と比較すると、新しくなっていますね。下線の部分が入ったことは、福音の新しい味わいがあることを示しているように思います。

マタイ5:45それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天
  の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも
  雨を降らせてくださるからです。

広辞苑による「福音」語釈
  第2版:①よろこばしいしらせ。②キリストによる人間の救いの道またはキリ
    ストの教え。
  第7版:①よろこばしいしらせ。②イエスキリストの説いた神の国と救いの教
    え。ゴスペル。

ガラテヤ5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉
    の欲望を満足させるようなことはありません。

種をまく人(185099.7*80)
  バルビゾンに移り住んだミレーが初めて手掛けた大作。「種をまく人」という
  画題は、パリにいたころからミレーの興味をひいていた。画面を占めているの
  は、左手で種の入った袋を握り、坂を下りながら右手で種をまく堂々とした姿
  である。なお、ミレーはこの作品とほぼ同じ構図、ほぼ同じ大きさの作品をも
  う一点描いており、ボストン美術館がその作品を所蔵している。(山梨県立美術館 
  のキャプションより)

 

2018年1月11日 (木)

神を愛し、愛される  ホセア6:1-6  2018.1.14

人は、どれほど神様を知ることができるのでしょうか。また、どのような神様を知ろうとしているのでしょうか。ひょっとすると、どこまでいっても、人は神様など十分に知ることはできないのかもしれません。他の人から見れば素晴らしい作品を作ったと思われるような人であっても、当人にとってはまだまだ十分ではない、満足のいくものではないと言われる境地に近いのではないかと思います。ところが神様のほうでは、ご自分のことをすべて明らかにしていると言っているのですから、なんとも面白いことです。ローマ1:19,20それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。禅語の、「明暦歴露堂々」に通じるみ言葉です。
 本日のテキストであるホセア書の著者ホセアは、北王国の滅亡を前にして神に仕えた人でした。不思議なのは、彼の妻と子供たちに対する言及です。彼の妻は姦淫という罪を犯したものであり、彼の子供の中には誰が父親かわからない者もいたようです。ホセアは、そのような罪深い妻でしたが、愛して受け入れ、私のもとから去ることがないようにと忠告を与えるような人でした。これは彼の実際生活であったとともに、神とこの時代の人々の関係を喩えたものでもあったのです。人は、自分の好みの人であったり、自分を愛してくれる人ならば、愛することができるでしょう。しかし、自分を裏切ったり、いわゆるタイプでない人を愛することができるでしょうか。霊的な姦淫である、偶像礼拝や神様を忘れて他の国や目に見える強大な国を頼りとしたイスラエルの人々は、滅んでもよい国だったのかもしれません。しかし神はそのような人々を哀れみ、熱い心を持っておられたのでした。
ホセア118わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。とあるとおりです。
 人はこの神様の哀れみを知って、神様に立ち返る、神を知ることに喜びを見出す必要があります。自分の達しえたところで、神を知る。それは知識や体験ではなく、砕かれた心です。その心をもって、神を礼拝することこそ、神に愛され、そして神を愛していることの証となるのです。


 ピリピ3:16  それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準とし    
    て、進むべきです。
 詩篇51:17神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなた
    は、それをさげすまれません。
 ローマ12:1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あ
    なたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、
    聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な
    礼拝です。

2018年1月 7日 (日)

福音の新しい気づき  マルコ2:18-22  2018.1.7

 新年、主にあって、あけましておめでとうございます。本年も日曜日の礼拝説教をアップしてまいりますので、よろしくお願いいたします。

主イエスの降誕物語は、ご存知の通りです。30歳から、神の国の福音を伝える公生涯に入られました。賛美歌にあるように、イエスは食べる暇もないほど人々に仕えられ、貧しい人や弱い人達とともにいました。12人の弟子を召し、彼らを育成して全世界に送り出したのでした。しかし昔からの律法を厳格に守っている人たちからは、イエスはモーセの律法をないがしろにする者であるとの批判を受けました。しかし私たちの主は、律法を廃棄するためではなく、その成就のために来られたのです。

マタ 5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
22:36-40イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 
これらことによって、イエスは律法の中心である、神を愛し人を愛する生涯を送った方であることがわかりますね。

 本日のテキストで上げられている、三つのたとえ、断食、着物の継あて、革袋が語っていることは何でしょうか。一言でいえば、古いものと新しいものは一緒にできない、ということになると思います。新しい生き方は、もはや古いやり方では抑えることができない、それ自体で力を持っているのです。現代でも、○○改革といって、現代に合う生活様式に改めていく試みがあるとおりです。これは実は、福音の理解の仕方にも言えるのです。古いものはすべて駄目である、価値がないと言っているのではありません。その理解の仕方が相変わらず古いと、その価値を生かすことができないということなのです。福音は、イエス様を信じたら罪から救われて天国行きが約束されるので良い知らせである、という理解だけでは不十分です。
 過日、ミレーの「種まく人」の本物を美術館でまじかで観ることができました。種を蒔く人が、斜面の畑に右足を出して踏ん張り、右手を大きく後ろに引いて、まさにこれから種を蒔く場面でした。今まで感じたことのない力強さを、この絵から感じたのです。私にとっては、新しい気づきでした。
 福音の持つ素晴らしさを改めて知る時、
肉の支配ではない、聖霊に導かれた新しい日々が始まるのです。
 
ガラテヤ5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

2018年1月 6日 (土)

新しい年への期待

 2018年、新しい年、明けましておめでとうございます。

 丘の上新年茶会には、今年も楽しい出会いがありました。3日は自分たちのリフレッシュということで、大みそかから泊っていた中西夫妻と甲府に行ってまいりました。新年度の奉仕教会が甲府になるということと、県立美術館がすぐ近くにあること、そして以前から行ってみたい温泉がそこにある、というためでした。この美術館に行けば、ミレーの作品に会うことができます。「種まく人」は、以前ほかの展覧会で観たことがあったと思いますが、今回はその力強さに改めて気づかされました。また、関東平野で見る富士山との景色の違いも感じることができ、謙信のライバルでもあった信玄は、こういう風景の中で育ったのか、さぞかし海が見たかっただろうな、と思った次第です。
 今年は新しいことが起こる予感がいたします。それは良きことなのか、悪しきことなのか・・・。いずれにせよ、本年もよろしくお願いいたします。皆様に神様の祝福がありますように。

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