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2018年2月

2018年2月25日 (日)

思い直す神  ヨナ3:1-10 2018.2.25

以前、聖書の読み方を京都の望洋庵で、すでに天国の民とされた溝部司教から教わったことがあります。日本文化宣教協力会の主催行事で、訪れた時のことでした。聖書をきちんと学んだあとで、自由にその場面を描いてもよいとのお話にほっとするとともに、とても励まされました。
 ヨナ書は4章からなっている物語で、うまい具合に起承転結という感じで読むことができる個所です。紀元前の物語で、その舞台も外国ですから、実際の場面はどうであったのかを知るのが難しいところです。なので、かえって自由に聖書を読みながら、ヨナの物語を思い描いたらよいと思います。ヨナという人物は、神様の命令を聞きながら最初はそれに従わず、大変な海難にあってしまい、なんとか助かってミッションが成功したにもかかわらず、機嫌を損ねてひきこもるという、なんとも情けない預言者です。そういう預言者だからこそ、なんとなく心ひかれる人物でもあるわけです。この物語の中に、神は思いを変える方である、思い直す方であることが示されています(9,10)。基本的に神は変わることのない方です。
 
1サムエル15:29 実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。」

 
しかし神様の願いは、すべての人が救われることです。

1テモテ2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
 
神は、悪に染まった人たちを滅ぼそうとする思いを変えてくださる方なのです。そのために必要なことは、私たち人が悔い改めることです。難行苦行のいる難しいことでも、お金のかかることでもありません。誰でもできることなのです。それは、自分の罪を認めお詫びし、それを捨てて神様のほうに向きを変えることです。いや、そんなことがかえって難しいのかもしれませんね。でも難しくしているのは人間、すなわち私たち自身であって、神様ではないのです。ヨナの物語から知るのは、私たちに対する神様の深いあわれみと愛の心です。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

2018年2月11日 (日)

主の日への備え  オバデヤ1:11-16  2018.2.11

明日はボーイスカウト春日部10団が所属している東埼玉地区のプログラムで、BP祭が行われます。BPというのは、ボーイスカウト運動の創立者である、英国クリスチャンのベーデン・パウエルの頭文字です。ここからボーイスカウトのモットーである「備えよ常に」Be Preparedが作られています。あらゆることに対する備えを日々して過ごすことが、社会人として必要なことであるといつも教えられます。
 本日のテキストであるオバデヤ書は、旧約聖書の中で最も短い書です。著者であるオバデヤという意味は、主の礼拝者、または、主のしもべというものですが、彼の人物像、著作年代などは不明です。エドムの滅亡を預言し、そのような中でも、神の救いがあることを伝えています。
 エドム人の祖先は、イサクの子供である双子の兄エサウです。彼は空腹の故に、一杯の食物を長男の権利と引き換え、そのために長男としての祝福を父から受けられなかった、ある意味不遇な人物です。これらの物語は創世記2527章に記されています。また新約聖書には、「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」(へブル12:16)とあるように、その人物評価は低いものです。もっとも、このできごとには弟ヤコブの兄を押しのけようという悪だくみが働いていたのであり、あながち、エサウだけを責めるわけにはいきません。それはともかく、エドム人は昔からイスラエルに戦いを挑み、アラビア人によって圧迫されるとユダ王国にも侵攻していったのです。前13世紀から8世紀にかけて繁栄と発展を遂げていったのですが、やがて他民族に吸収され滅んでしまいます。


 なぜエドム人は、このようになってしまったのでしょうか。その理由の一つは、高慢です。3節に「あなたの心の高慢は自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、『だれが私を地に引きずり降ろせようか』と心のうちに言っている。」とあるとおりです。また、他国の侵略を受けて苦しんでいるユダ王国に対して、見て見ぬふりをしているどころか、かえって国の混乱に乗じて略奪を行った、その非情さの故です(11-14)。このようなこと忘れないユダヤ人の思いが、後世まで受け継がれていきました。「主よ。エルサレムの日に、『破壊せよ、破壊せよ、その基までも』と言ったエドムの子らを思い出してください。」(詩篇137:7)
 現代の私たちの社会でも、兄弟同士の争い、他の民族との争いがあります。たとえて言えば、殴ったほうは忘れても、殴られたほうはたといごめんなさいと言われても、その痛さや屈辱は決して忘れることができないのです。お互いに本当に謙遜にならなければ、真の和解は来ないでしょう。
 主の日とは、神の裁きの時を表します。その時には、人は神様の前に申し開きをしなくてなりません。今日という一日を、その備えとして真実に過ごしていかなくてはならないのです。

2018年2月 4日 (日)

主を求めて生きよ  アモス5:4-15  2018.2.4

   10年近く前、若くして自らの命を絶った女性の葬儀を執り行いました。司式者の私も、大変つらい時でした。その時の説教題は「生きよ」というものでした。テキストは、詩篇23篇でした。愛する娘を突然失った両親、家族へのメッセージです。自分が死にたいほどの悲しみの中に置かれても、娘の後を追って自分も死にたいというような状況でも、なお神様は「生きよ」と言ってくださっている、そのことを伝えたかったからでした。
 本日のテキストの著者アモスは、もともと羊を飼う者であり、イチジク桑の木を栽培していました。しかし神様の召しを受けて預言者として活動した人でした。神様の招きがあったら、避けてはいけません。舞台は北王国イスラエル、ヤロブアム王の時代でした。この時代、北王国は領土を広げ、繁栄していたようです。しかし富める者は、貧しい者を虐げ、神様の正義に生きているとは言えないような人たちでした。かつて、神がおられることを悟ったヤコブの滞在したベテル、交通の要所として栄えたベエル・シェバ、そしてサムエルやサウル王ともかかわりのあったギルガルは、偶像礼拝の街となっていたのです。繁栄を遂げている北王国ではありましたが、少しずつ王国崩壊の足音が聞こえてくるようなときだったのです。
 アモスの語ったメッセージは明確です。それは、主を求めて生きよ、というものでした。これは、4:12bの「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」に対応する言葉です。人々は、主のためではなく、自分のために生きていたのでした。しかしそれは滅びの道であり、行きつくところは、死だったのです。私たちの求めるべき主、神様は、オリオン座やスバル座のある、この天地を造られたお方です(8)。そして強い者を打ち砕き、不正を行う者を嫌われるお方です(9-12)。人の力で、正義を行うことはできません。義なる神様によって、人は正しい道を歩むことができるのです。 
 さて、現代の私たちの生きる姿はどうでしょうか。
 新約聖書には「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」ピリピ2:21とのみ言葉があります。これは、自分自身や自国のみの平和と繁栄を求める、今の時代を表すみ言葉であると思います。私たちの主は言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」マタイ6:33
 神のおられるところ、そこが神の国です。どんな悲しみや苦しみがあっても、又栄えることができていても、主を求めるのでなければ、本当に「生きる」とは言えないのではないでしょうか。

2018年2月 3日 (土)

こころの底力を保つために

 ようやくたどり着いた会場は、すでに講演会が始まっていた。午前中に、昨年召された方の納骨式を行い、ちょっと出発が遅くなってしまったことと、駅に着いてから会場に着くまでに、予想を超える時間がかかってしまったためである。会場は渋谷駅近くにある、教会。JR渋谷駅も、歩道橋も工事中で、自分の知っている景色とはずいぶん違っていたため、以前の道がわからなくなってしまっていたのである。田舎からたま~に来ると、だめですねー。

 それはともかく、今回の講師は精神科医の香山リカ氏。テレビや雑誌の対談などで話されることに、共感を覚えていたので、最前列でがっつり聞こうと思っていたのだが、当てが外れてしまった。しかし、香山氏独特のため口のような語り掛けが、心地よかった。イントロで精神科医としての悩みというか迷いというか、そういったお話は、大いに納得した。自分は牧師でありながら、人を癒すどころか、かえって悪くしているのではないかと、悩むことが今もあるからだ。医療や脳科学、ゲノム解析の進んでいる時代に、果たして牧師の出番はあるのだろうか、とも思うのだ。

 講演で一番心に留まったのは、人には自らの中に元気になっていく力、回復していく力が備わっているというお話である。同じようなことは、よく言われていることだと思う。しかし、香山氏の体験に基づくお話は、わかりやすく、あらためて人と向き合うことの力をいただいた感じである。ま、山ちゃんペースでやっていくのが、一番。露払いのように、その人が立ち上がれるように邪魔なものをどかし、ときには道を譲って、神様のやしないを信じて、一緒に行ければいい。すくなても、その人が立つことの邪魔をしないようにしよう。明日の説教のキーワードは「生きる」ということ。今日のお話は、糧となりました。

 ちなみに、隣には加来先生が座っておられ、久しぶりの出会いとなりました。「先生の御本を、毎月一回勉強会のテキストとして使わせてもらってます」とあいさつを交わすことができて、これもまたよかったです。教会の80周年記念誌も特別にいただき、とても良い午後のひと時なりました。

 こころの底力、みんな持っているんですね。

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