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2018年3月

2018年3月25日 (日)

神の宮を見て  マルコ19:1-11 2018.3.25

本日から受難週(聖週間ともいう)となります。聖書の記述によれば、週の最初の日イエス様は子ろばに乗ってエルサレムに入り、人々は木の枝(棕櫚、ナツメヤシの葉)を打ち振って迎えました。このことから本日は、パームサンデーといわれています。 
 この記事は、共観福音書に書かれているのですが、マルコには、エルサレムに入ったイエスが宮を見て回った後、ベタニアに帰った、という記述があります。翌日は再びエルサレムに上り、そこで神殿の商売人や両替人たちを追い出すという「宮きよめ」をされるのですから、この一文は何か意味を含んでいるように感じます。今朝は、そんなことを心に留めて、み言葉を思い巡らしてまいりましょう。


 イエス様が都エルサレムを目指して歩いていたことは、いくつかの記述によって知ることができます。
ルカ9:51には、ご自分の死を見つめ、行くべき道をしっかり見ていたイエスの姿が描かれています。「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、」そしていよいよエルサレムが近づいてきたとき、イエスは都を見て泣かれたというのです。ルカ19:4144「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。~」栄華を窮めた都がやがて滅びてしまう、しかしそのことを知らない人々がいる、その悲しみを知っているが故の、涙だったのでしょう。そして本日の個所に続く月曜日には、エルサレムの神殿にいた商売人や両替人を追い出したという記事、宮きよめの出来事が記されています。エルサレムに入り、神殿の様子をじっと見つめていたイエスの目には、ルカの記述と同じように、涙があったのではないでしょうか。たしかに、神殿で礼拝をささげるために来た人は、礼拝のために両替をする必要があり、いけにえの動物を買う必要がありました。しかし商売人の中には、不正があり、不当な利益を上げている人たちがいたのです。その様子をイエスは「強盗の巣にした」(17)と言われたのです。


 イエスを信じた者は、聖霊の宿る神の宮です。礼拝と祈りこそ、大切であると信じています。しかしその心は、どうでしょうか。私利私欲にかられ、自分勝手な生活を信仰の生活であると勘違いしてはいないでしょうか。悲しみや苦しみの中にも、キリストがともにいてくださるという、約束を信じているでしょうか。自分のからだを、強盗の巣にしてはいないでしょうか。聖霊の宮である私たちを見てくださっているイエス様の前で、私たちも真実な歩みを続けて行きたいのです。

2018年3月11日 (日)

キリストによって建て上げられる教会  エペソ2:19-22 2018.3.11

 

教会とは、イエスキリストを救い主と信じている人たちの集まりです。よく「目に見えない教会」という表現を使いますが、これは時代や場所に限定されない、教会の本質的な性質を示しています。エルサレム教会から始まる、キリスト教2000年の歴史の中で、いろいろな国や地域に建てられたのが、「目に見える教会」です。実際には、その目に見える教会に私たちは集っているわけです。
 教会のメンバーは、何よりも聖徒であり、肉によらない神によって生まれた家族の一員なのです。国籍や性別、その置かれた境遇などにはよらない、新しい交わりのかたちです。その土台が使徒と預言者であるというのは、彼らの語る言葉、すなわち、聖書がその土台であるということです。礼拝や交わりなどの教会のあらゆる働きだけでなく、聖徒であるクリスチャン一人一人の生活の究極の権威が、聖書なのです。教会全体で聖書を学ぶ、個人でもデボーションを大切にする、それが霊の糧となっているのです。

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」詩篇119105


 さらにこの教会は、キリストによって建て上げられるのです。教会のかしらであるキリストは、十字架にかけられて、罪の赦しを成し遂げてくださいました。しかし、それでキリストの生涯は終わったのではありません。墓に葬られましたが、三日目によみがえられたのです。復活されたのです。十字架と復活こそ、教会が建っていくもっとも固い基礎なのです。
 2006923日にNHKで「探検ロマン 世界遺産『エルサレム、34億人の成都』」という番組が放送されました。その番組の中に、イエスが葬られた墓の上に建てられている聖墳墓教会で12年間奉仕しておられた唯一の日本人神父、春山勝美神父(200711月に帰天)が取り上げられていました。カメラマイクの前で、こう言われました。「ここは復活聖堂なのです」「イエスキリストの復活がなければ、こんなところで奉仕はしていません」さらに、インタビューが「復活とは何ですか」と尋ねると、「復活とは、キリストが生きていることです」と答えておられたのです。まさに、教会が何によって建てられているのか、その核心をついたお答えでした。

 41日は復活祭。キリストによって建て上げられる教会の祝福を、ともに味わいたいものですね。

2018年3月 4日 (日)

教会のために生まれた方  マラキ5:2-9  2018.3.4

クリスマスシーズンに開かれる聖書に引用されているみ言葉は、ミカ書からのものでした。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」この最も小さいという意味は、文字通り小さな町、小さな部族であるというだけでなく、「つまらない、若い、年下」という意味を含んでいます。人様に何かを差し上げる時に「つまらないものですが…」と言ったりしますね。
 しかしこの小さな町から、イスラエルの支配者が出るというのです。それは政治的にこの世を支配する者ではなく、愛によって支配する、つまり人々の救い主として現れ、罪の赦しによる神との平安を与えてくださる方の出現を預言したものでした。それが、イエスキリストによって実現しというのが、聖書のメッセージであり、福音の中心です。
 イエスは、平和の君として生まれました。弟子たちと過ごした最後の過ぎ越しの夜には、「わたしはあなたがたに平安を与えます」と言われました。そして軍馬でなく、柔和な方としてロバの子に乗ってエルサレムはいられ、十字架につけられて殺されたのでした。このイエスの死によって、神は大きな愛を示してくださったのです。それはまた、教会への愛の表れでもあったのです。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」エペソ525 イエスの愛が、具体的な生活の中で実現します。それはまず夫婦の間のことである、と言っています。特に夫は、しっかりと聞かくなくてはなりませんね。
 紀元前、北王国イスラエルも、南王国ユダも、アッシリア帝国の力によって屈服させられました。しかしそのアッシリアも滅ぼされてしまいました。ベツレヘムは、パレスチナに属する街ですが、今日もなお戦禍の中に置かれています。イエス誕生の地に建てられている聖誕教会の外壁には、銃痕が今も残っています。
 このようなところが御子の降誕の場所であるということは、いと小さい者、つまらない者である私たちのために、そして罪人の集まりである、教会のために生まれてくださったことを表しているのです。

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