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2018年4月

2018年4月29日 (日)

主の日-裁きと祝福  ゼパニヤ1:1-9  2018.4.29

本書の著者であるゼパニヤについては、短く書かれています。5代前までさかのぼって先祖の名前が書かれていますが、これだけではどのような家系であったのか、わかりませんね。時代の背景は、南王国ユダの王はヨシヤであったとあります。BC640609年ごろと思われます。ヨシヤは、天地を造られた神への礼拝を回復し、律法の書を発見して改めて朗読させ、過ぎ越しの祭りのいけにえを捧げた人物でした。「宗教改革」を成し遂げた王として評価されています。しかしエジプト王ネコとの戦いにおいて、ユーフラテス河畔のカルケミシュにおいて戦死してしまいます。この辺りのことは、Ⅱ歴代誌3435章を参照してください。
 ゼパニヤ書は、他の小預言書と共通しているように、主の日が近づいていることと、その日に備えることが中心的なテーマとなっています。主の日は、終末における神の裁きの時であり、すべての人、特にエルサレムに住んでいる人に臨む厳しい時であると言えます。すべてのものを造られた主である神は、陶器師が失敗した作品を作り直すように、この世界をリセットしてもう一度新しくすることのできる方なのです。しかしそれは、悔い改めて神に立ち返った者にとっては、祝福の時ともなっています。新約聖書によれば、死んだ人もよみがえるという、イエスキリストによってなされた救いの御業が完成する時です(
ヨハネ6:39  わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。)。裁きの日であるとともに、祝福の日でもあるのです。
 使徒の働きやパウロの書簡を見ると、主の日は終末という未来の日を表すだけでなく、週の初めの日に集まり、礼拝をささげる日であったということがうかがえます。使徒20:7には「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」とあり、今日でいう聖餐式を守っていたり、他の個所を参照すると、献金をしていたことがわかるのです。日曜日は、言うまでもなく、イエスキリストがよみがえられたことを記念する日です。その日を主の日、聖日と言ってともに集い、礼拝を守り、またお互いに愛の奉仕をする(
1ペテロ4:7,8万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。)日となっていったのです。このことは、主の日の過ごし方について示唆を与えています。
 主の日が神の裁きの日であるとともに、祝福の日であることを覚えて、慎みをもって過ごしたいものです。

2018年4月15日 (日)

信仰によって生きる ハバクク2:1-4  2018.4.15

ハバククが預言者として活動した時代は、南王国ユダが周りを取り囲まれている強大な国から圧迫を受けている時でした。ペルシャやエジプトも倒され、やがてユダもバビロニア帝国に捕囚の民となって連れ去れるようになる、そんな苦難の時代でした。
 本書の中心聖句は、2:4の「正しい人はその信仰によって生きる」という言葉でしょう。カトリックのフランシスコ会訳聖書では「見よ、心がまっすぐでない者は崩れ去る、しかし、正しい人はその誠実さによって生きる。」となっていました。解説には「『生きる』と対応させて、崩れる、気を失う、衰えるなどの意味の言葉に読み替え『崩れ去る』と訳した」とありました。
 現代でも、生きるということはいろいろな場面で使われる、大切な言葉であり、文字通り生きることは価値のあることです。季節ごとの旬の食材をたべるのも、命をいただいて人間が生きることを味わう具体的な行為です。ハバククは、人が生きるのは偶像から立ち返って、この天地を造り私たちを愛している神様を信頼していくことこそが、真に人を生かすと言っているのです。このみ言葉は、新約聖書に3回引用されています。
ローマ1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるか
  らです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
ガラテヤ3:11  律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないという
  ことは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。
へブル10:38 わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの
  心は彼を喜ばない。」
 特に、ローマ1:17は、宗教改革者のマルティン・ルターが引用した言葉として有名です。彼はこのみ言葉を一瞬にして悟ったというのではなく、彼の内面の葛藤、家庭内で子供をなくすという苦しみ、そして聖書を学ぶ苦しみの中で、ようやく人は信仰によって神の前に正しい者とされることに行きあたったのでした。この辺りのことは、宗教改革500年の節目であった昨年、NHKR2のカルチャーラジオで放送されていました。私たちにも、苦難や葛藤があります。一瞬にしてそのような苦しみから解放されるということよりは、その中にあって神を待ち望んでいく、そのようなことの中から次第に生かされていることを味わうようになることでしょう。

2018年4月 8日 (日)

福音を伝える者 ナホム1:12-15  2018.4.8

歴史の出来事と、聖書に書かれている物語を照らし合わせると、おもしろいことが多くあります。ナホム書はアッシリア帝国の首都であったニネベが陥落と滅亡の預言を記した書です。そして実際に、ニネベは紀元前612年に新バビロニア帝国によって滅ぼされました。古代オリエントが統一され、やがてギリシャ、ローマ帝国の支配へと移っていく歴史の一コマです。
 ニネベがどのように滅ぼされたのか、その描写が2章に書かれています。敵国の略奪によるニネベの人たちの悲惨な叫び声が聞こえてくるような描写で、心が痛みます。彼らは、ヨナの宣教によって悔い改め、滅びをまぬかれたはずでした。しかしいつの間にか悔い改めたことを忘れ、自分たちの欲望のままにふるまうようになってしまったのです。
 アッシリア滅亡の理由は歴史家によって諸説挙げられています。その中でも、時の王アシュルハニバルは民の窮状を救うために有効な手立てをしなかったばかりか、欲望にふけり、王妃(愛人?)と一緒に燃える炎の中に飛び込んで最期を遂げた、愚かな王によって国は滅んだという説が目を引きます。
 ニネベが滅びる前に、南王国ユダは圧迫を受け、苦しみを味わいます。しかしそのようなユダに対して、やがて解放される時が来ること、そしてあなた方は良い知らせを伝える者なのだ、と慰めと励ましを語ったのが、本日の聖書個所です。良い知らせを伝える者の足が山々の上にあるとは、脚力にたけた人たちが知らせを素早く伝えることを表します。あるいは、山にのろしを上げて情報伝達を速やかに行った様を示しています。このみ言葉は、ローマ1015に引用されています。
 
遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
 良い知らせ、すなわち、福音を信じることによって人は救われるのですが、伝えられなければわかりません。ですから、その福音を伝える人は立派な働きをしている人と言えるわけです。
 教会の使命は、どのような時代であっても福音を伝える人です。キリスト者は、自分の足で福音を証する者なのです。それはまことに立派な働きなのです。

2018年4月 6日 (金)

復活祭の後に

天候に恵まれ、主イエスキリストの復活を喜び、礼拝をささげることができた。まことに感謝な一日であった。

その日の夜、旭川在住のおばさまが亡くなったという電話があった。三浦綾子さんの聖書を読む集いに出られるようになったことから、文学館の立ち上げの時にはDM発送などのお手伝いをしたそうである。いとこにあたる長男の結婚式は、丘の上会堂で行った。昨年娘の結婚式の後見舞ったのが、おばさまとの最後の出会いとなった。

火曜日には、長年中学校教師として奉職されていた方が召された。出会わせていただいてからわずか1か月後、告別式の司式をさせていただくこととなる。子供たち、教えることの大好きだったその方は、やはり中学教師であった父とダブるところがある。その方が心にとめていた聖書の言葉「見ずに信じること」の大切さを、お話ししたい。

復活の主がおられ、今も生きている、お二人のことを思いながら、改めてそのことを感じている。

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