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2018年9月

2018年9月30日 (日)

流れのほとりに  詩篇1:1-6  2018.9.30

詩人の谷川俊太郎さんが、書いておられます。「そう、詩はわからなくても、たべもののようにあじわうことができるんだ。詩を読むと、こころがひろがる。詩をこえにだすと、からだがよろこぶ。」(詩ってなんだろう ちくま文庫) 

本日から、詩篇を説教テキストとして取り上げたいと思っております。新約聖書からイエス様の物語も扱いたいので、毎週というわけではありませんが。詩篇は全部で150篇ありますから、すべてを取り上げると何年かかるやら?どうして詩篇を取り上げるのかと問われれば、「詩篇を読みたくなったから、語りたくなったから」としか言えないような気がいたします。詩人は、書きたくなったから詩を書くのだそうです。それと同じかもしれません。

この世には、優れた注解書や、詩篇をテキストとした説教集が出版されています。実際に説教を聞かれた方もあるでしょう。そのような中ですが、改めて一篇一篇のみ言葉を味わってまいりましょう。

詩篇第1篇には表題がありません。全詩篇の始まりとして、書かれたものと思われます。新改訳聖書第3版と新改訳聖書2017を比べると、3節の翻訳に違いがあります。第3版では「水路のそばに植わった木のようだ」とありますが、2017では「流れのほとりに植えられた木」となっています。他の日本語訳聖書でも、このようになっています。聖書の舞台となっている地方の多くは、荒野です。岩が転がり、茶色で乾燥した地なのです。しかしそこに水の流れがある、小さな川があり、命がはぐくまれている。そんな流れのほとりに木が植えられ、季節が巡って来れば実がなり、葉は枯れないというのです。いわゆる、常緑樹ですね。代表的なのは、ナツメヤシの木でしょうか。

これは人生を表す表現であり、旧約聖書にある族長の一人ヨセフは、「実を結ぶ若枝、泉のほとりの、実を結ぶ若枝。その枝は垣を越える。」(創世記49:22)と言われています。水がそばにあることによって、木は生きるのです。私たちに人間も、水がなければ生きていくことができません。そして神様の前に正しく生きるには、霊の水が必要なのです。それはイエス様と結びついていること、イエス様をいただくこと、水を飲むようにしてイエス様のみ言葉を味わうことです。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38) 

時に、心が渇いてしまうことがあります。何をしても満たされないこともあるでしょう。そのような時こそ、詩篇の言葉を口ずさんでみましょう。心だけでなく、あなたのからだも喜ぶことでしょう。

2018年9月 1日 (土)

一つに合うまで  ヨハネ17:20-26  2018.9.2

人は、祈ることができ、また祈ってもらえる存在です。大祭司でもあるイエス様のとりなしの祈りを、今朝は心に留めさせていただきましょう。
 教会の週報に「一週一祷」という欄があり、教会の各委員会の祈りの課題が載っています。どの教会の週報でも、このような祈りの課題が書かれています。
 キリスト者の務めの一つは、とりなしの祈りであると思います。万民祭司を掲げるプロテスタント教会においては、特にこのことは大切です。祈るのをやめるのは罪であるとさえ、聖書に書かれているのです(1サムエル12:23)。ハンス・ビュルキ師は、「主の弟子となるための交わり」という本の中で、真の一致のためのとりなしの祈りの重要性を説いています。その中に「互いのために祈るとは、自分を他の人の立場に移し替え、自分をその人とひとつにし、その人とともに、またその人のために自分を神にささげることです」と書いておられます。
 イエス様の祈りは、まさにとりなしの祈りとして、自分を弟子たちの立場に置き、彼らのために祈られた祈りでした。まずイエスは、弟子たちがこの世にいながらこの世のものではないことを明言します。世界史の中で今日まで、否今日も、キリスト者や教会が迫害を受けてきました。潜伏キリシタンの教会群が世界遺産に登録されましたが、これはキリスト者がこの世にいながらこの世から嫌わた者であることを思い起こす遺産である、と思います。そのような彼らを守ってくださるようにと、母親にも似た思いをもってイエスがとりなしていてくださるのです。
 そして彼らが一つなることを、願っておられるです。16章にある説教の後半では、弟子たちが散らされるとの預言がありました。散らされた弟子たち、今日でいえば、世界中にいるキリスト者が一つになるように、というのが主の願いなのです。しかしその一つになるということは、組織や活動を一つにするというのではありません。三位一体なる神様が、調和を持った交わりを持ちながら一つであるように、教会も一つになりなさい、ということです。霊の一致がまず最初にあるのです。互いの違いをみとめ、受けれつつ、同じキリスト者としてそれぞれの営みをする、それが神の国に生きる者の務めです。
 やがて天国において、私たちは一つに合わされ、完全な一致に入れられるのです。

1ペテロ3:8 
最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。

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