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2018年11月

2018年11月11日 (日)

主の御名を呼ぶ  マタイ21:12-17  2018.11.11

本日は、子供祝福式が行われました。先月のツアーの折には、エルサレムの嘆きの壁(西の壁)で、バーミツバーの祝いを見ることができました。13歳になった男子のお祝いで、日本で言えば成人式のようなものです。これは大人になったことを祝うものですが、古今東西いつの時代にも、次の時代を担う子供や幼子を祝福する行事がありますね。イエス様が子供たちを祝福したり、皆の前で立たせたりするときは、大人たちへのメッセージ、時には皮肉とも終えるような言葉を語られています。 

本日のテキストは、イエス様の生涯最後の1週間の第2日目に当たる出来事です。週の最初の日に都エルサレムに入られ、翌日は神殿で売り買いしている人や両替人達を追い出すという、ショッキングなことをされました。「宮きよめ」といわれる出来事です。その中で、マタイだけが子供たちが「ダビデの子にホサナ」と言っていたときしています。
 都に入られる時は、子供だけでなく大人たちも棕櫚の葉を取って叫んでいたのですから、子供たちは次の日になってもなお、その興奮が残っていたのでしょう。しかし、そんな子供たちを、祭司長たち大人は腹を立てたのです。現代も、うるさくしている子供たちに対し、不快感を表す人がいますね。
 しかしこの子供たちはただやかましくしていたのではなく、主なる神様を呼んでいたのです。イエス様は彼らの様子を、詩篇8篇を引用して、素晴らしいことであると言っているのです。この詩篇は、世界を造られた神を賛美する歌です。私たち人間だけでなく、被造物もすべて、神をたたえているということでしょう。

主を呼ぶとは、神様への信頼の表現です。たといどのようなつらいところにいても、主を呼ぶことができるのです。神の子であるイエス様自身が、この後、ゲッセマネの園で父なる神様をうめきながら呼んでおられるのです。それは、苦悶の祈りでした。私たちも苦しみの中でこそ、主なる神を呼び、そのお方が聞いてくださると知る時、「主よ、み心をなしたまえ」と委ねる信仰の祝福にあずかることでしょう。
 30歳に満たずに亡くなったキリスト者の詩人、八木重吉は、このような詩を残しました。

さて あかんぼは なぜ あん あん あん あん なくのだろうか

ほんとに うるせいよ

あん あん あん あん あん あん あん あん

うるさか ないよ うるさか ないよ よんでいるんだよ

かみさまをよんでるんだよ みんなもよびな あんなに しつっこくよびな

 

 おさなごのような心で、主を呼び求めていきたいですね。

「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。ローマ10:13

2018年11月 4日 (日)

福音の真理に向かって  ガラテヤ2:14-21  2018.11.4 

1017日から31日まで、イスラエル、ローマ、アッシジへの旅を、無事に終えることができました。教会の皆様のお祈りと、事前の励ましやアドバイスに感謝いたします。ネタニアから始まったイスラエルを北から南に回ってエルサレムに入るまでは、外国での初めての運転。目的地はわかっていても、電車とバスの乗り方や降りる場所がわからないローマとアッシジ。そんな中で、事故もなく健康が守られて帰ってこられたこと自体が、奇跡のように思います。ある方が「神様がともにいてくださいましたね」と言ってくださいましたが、まさにその通りだったと思います。

本日の個所は、信仰の後輩であるパウロが、先輩でもあり、イエス様から直接弟子に招かれたペテロを、教会の面前で非難したできごとです。

エルサレムから始まった新しい教会の宣教は、ユダヤ人にとどまらず、異邦人にもおよび、各地にキリスト者の交わり(教会)が生まれてきました。教会の中には、イエスを信じるユダヤ人と、それ以外の他の国の人達、異邦人が集っていました。ペテロはユダヤ人でしたが、宣教の拡大とともに、異邦人とも交わりを持つようになりました。しかし割礼派の人々が来ると、まるで彼らの機嫌を取るかのようになり、異邦人から離れて行ってしまったのです。割礼派の人とは、イエスを信じていてもなお、ユダヤ人として律法を固く守っている人たちのことでしょう。

パウロがペテロを叱責したポイントは、福音はイエスキリストの喜ばしいニュースである、何が喜ばしいかというと、人々の罪が赦され天国への道が開かれただけでなく、キリストにあって人が義と認められ、さらに人種の壁はなく、神の恵みによって一つにされているということです。そのことをペテロは知っているはずなのに、しかも私より信仰の先輩なのに何たることか!ということで、パウロは叱責したのでしょう。のちにペテロは、異邦人にも福音を述べ伝えるようになっていくわけですから、建徳的な叱責でした。教会には、時にこのような厳しいぶつかり合いが、必要なのですね。

大切なことは、2021節にあるように、イエスキリストの死によって生かされ、肉の原理ではなく、神の原理によって生きるということです。私たちも、他の人を差別したり、神様よりも自分中心に考えて行動することはないでしょうか。神様の前に、私たちの人生の申し開きをしなくてならない時が来ます。その日の前に、自らが福音の真理に向かっているかどうか、いつも点検して歩んでまいりましょう。

 「私たちの主であり救い主であるイエスキリストの恵みと知識において

 成長しなさい。2ペテロ3:18

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