フォト
無料ブログはココログ

« 2018年10月 | トップページ | 2018年12月 »

2018年11月

2018年11月23日 (金)

罪びとを救う十字架の言葉  ルカ23:33-43

本日の個所は、救いの物語が明確に述べられている箇所の一つです。

ゲッセマネの園で捕えられたイエスは、夜のうちに裁判を受け、人々の手に渡され、死刑にされるために、自分がはり付けられる十字架を担いで刑場へと歩いて行かれました。その場所はどくろと呼ばれるところでした。エルサレムには、イエスが十字架につけられ葬られた言われている場所が二つあります。郊外にある園の墓と呼ばれているところは、文字通りどくろのように見える丘の近くにあります。もう一つは、聖墳墓教会のドームの下にある場所で、建物に覆われています。しかしこの二か所に共通しているのは、死人を葬る墓ではあるのですが、イエスの復活を証しているのです。どくろは、人の死を表しています。しかし、イエスを信じるものは、死んでも生きるという復活の信仰をいただいているのです。

イエスのつけられた十字架の両側には、極悪人が二人つけられておりました。一人は、イエスをあざける群衆と同じように、イエスに悪態をついていました。しかしもう一人は彼をたしなめ、イエスにこう言うのです。どうかわたしを思い出してください、と。

これは、自分の悪事をみとめ、イエスにお詫びをしている姿です。罪の悔い改めと、イエスを信じる信仰の表明です。それに対してイエスは、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と応えられました。パラダイスとは、神様とともにいる場所です。天国と言っても、良いと思います。罪(つみ)というのは、いわゆる悪事であったり、人の心の中にある悪い思いというのではありません。神様から離れ、わがままな自己中心な思いのことです。この罪をわびてイエスを信じる者は、救われるのです。

十字架の下で、イエスの着ている物をくじ引きで分けていたのは、イエスを十字架につけたローマ兵でした。しかし、十字架につけた者とは、罪を持っている私たち全員なのです。もっと端的に言えば、あなたがイエスを死に追いやったのです。

イエスはこのような私たち罪人を救うために、まず赦しの祈りをされたのでした(34)。くだんの犯罪人はこの言葉を聞いたので、イエスに救いを求めたのかもしれません。イエスを信じる者は、皆、救われるのです。

東方教会(ギリシャ、ロシア正教)の十字架は、八端十字架と言われます。普通の十字架より、2本、線が多いのです。上には罪状書きを表す横線、そして足元には、斜めになった線が書かれています。上に上がった部分は救いを表しますが、下に下がった部分は、悔い改めることなく裁きに下さることを表しているのです。

Ⅰコリント1:18

 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。

 

2018年11月18日 (日)

朝を迎える幸い  詩篇3:1-8  2018.11.18

 独身時代の時、いわゆる夜逃げをしてきた家族と一緒になった時がありました。その人たちはどうなったのかなあと思ってしまいますが、何かにおわれているという感覚は、あまり良いものではないでしょう。

 本日の詩篇は、あろうことか王であるダビデが、息子の一人であるアブシャロムに追われて逃げていたときの歌です。このような表題は後世につけられたものなので、詩の背景を必ずしも正確に表していないかもしれません。しかし、詩篇の内容を理解するためのリアル感を与えるもので、読む者には役立つものです。ダビデがアブシャロムから逃れている様子は、2サムエル15-17に記されています。

 この物語は、ダビデは助かってエルサレムに戻り、アブシャロムはダビデの家来に打ち取られてしまう、という結末を迎えます。ダビデの逃亡先は、ヨルダン川の東側、ヤボク川に面したマハナイムという町でした(2サムエル17:24)。ダビデは王宮を出たのち、オリーブ山を登って降りて、荒野を通ってヨルダン川を渡り、マハナイムに着いたのでしょう。

 12節には、自分の周りは敵に囲まれていて、命の危うい様子が描かれています。しかし3節で、神は自分を守る盾のようなお方なのだと歌います。主に呼ばわっているダビデには、聖なる山、シオンから助けがある、すなわち、神の助けがあると4節に歌っています。そして、56節では、このような危険な目に合っても安心して眠ることができる、そして翌朝目を覚ますことができる幸いを歌っているのです。

 枕が変わると眠れないとか、真っ暗だと眠れないとか、朝の目覚めが悪いなどという方がありますね。眠りたいのに眠れない、という方も結構おられます。しかしダビデは、王宮の豪華なベッドではなく、岩がごつごつところがっているような荒野でも、ゆっくりと眠ることができる、と言うのです。医学的にどうしたら安眠でき、翌朝気持ちよく目覚めることができるのか、私は良く知りません。しかしここでは、敵に囲まれ、命を狙われているという危険極まりない状況の中でも、神様に信頼している信仰の故に、ゆったりと休んでいるダビデがいるのです。

 私たちも、信仰から来る平安を、いただくことができるのですね。78節は、自分の命を狙う敵を、滅ぼしてくださいという願いです。しかし、ここで考えてしまいました。ダビデの子アブシャロムは父に反逆し、人々の歓心を買って、自ら王位につこうとしていた人物でした。しかし、このような彼にはつらい過去、ある意味同情できることがあったのです(2サムエル1314をお読みください)。ちょっとこれは、アブシャロムに対して、厳しすぎるのではないかと思うのです。しかし、救いは主にあり、神の祝福がある。そこに目を向けたいと思います。

 

2018年11月11日 (日)

主の御名を呼ぶ  マタイ21:12-17  2018.11.11

本日は、子供祝福式が行われました。先月のツアーの折には、エルサレムの嘆きの壁(西の壁)で、バーミツバーの祝いを見ることができました。13歳になった男子のお祝いで、日本で言えば成人式のようなものです。これは大人になったことを祝うものですが、古今東西いつの時代にも、次の時代を担う子供や幼子を祝福する行事がありますね。イエス様が子供たちを祝福したり、皆の前で立たせたりするときは、大人たちへのメッセージ、時には皮肉とも終えるような言葉を語られています。 

本日のテキストは、イエス様の生涯最後の1週間の第2日目に当たる出来事です。週の最初の日に都エルサレムに入られ、翌日は神殿で売り買いしている人や両替人達を追い出すという、ショッキングなことをされました。「宮きよめ」といわれる出来事です。その中で、マタイだけが子供たちが「ダビデの子にホサナ」と言っていたときしています。
 都に入られる時は、子供だけでなく大人たちも棕櫚の葉を取って叫んでいたのですから、子供たちは次の日になってもなお、その興奮が残っていたのでしょう。しかし、そんな子供たちを、祭司長たち大人は腹を立てたのです。現代も、うるさくしている子供たちに対し、不快感を表す人がいますね。
 しかしこの子供たちはただやかましくしていたのではなく、主なる神様を呼んでいたのです。イエス様は彼らの様子を、詩篇8篇を引用して、素晴らしいことであると言っているのです。この詩篇は、世界を造られた神を賛美する歌です。私たち人間だけでなく、被造物もすべて、神をたたえているということでしょう。

主を呼ぶとは、神様への信頼の表現です。たといどのようなつらいところにいても、主を呼ぶことができるのです。神の子であるイエス様自身が、この後、ゲッセマネの園で父なる神様をうめきながら呼んでおられるのです。それは、苦悶の祈りでした。私たちも苦しみの中でこそ、主なる神を呼び、そのお方が聞いてくださると知る時、「主よ、み心をなしたまえ」と委ねる信仰の祝福にあずかることでしょう。
 30歳に満たずに亡くなったキリスト者の詩人、八木重吉は、このような詩を残しました。

さて あかんぼは なぜ あん あん あん あん なくのだろうか

ほんとに うるせいよ

あん あん あん あん あん あん あん あん

うるさか ないよ うるさか ないよ よんでいるんだよ

かみさまをよんでるんだよ みんなもよびな あんなに しつっこくよびな

 

 おさなごのような心で、主を呼び求めていきたいですね。

「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。ローマ10:13

2018年11月 4日 (日)

福音の真理に向かって  ガラテヤ2:14-21  2018.11.4 

1017日から31日まで、イスラエル、ローマ、アッシジへの旅を、無事に終えることができました。教会の皆様のお祈りと、事前の励ましやアドバイスに感謝いたします。ネタニアから始まったイスラエルを北から南に回ってエルサレムに入るまでは、外国での初めての運転。目的地はわかっていても、電車とバスの乗り方や降りる場所がわからないローマとアッシジ。そんな中で、事故もなく健康が守られて帰ってこられたこと自体が、奇跡のように思います。ある方が「神様がともにいてくださいましたね」と言ってくださいましたが、まさにその通りだったと思います。

本日の個所は、信仰の後輩であるパウロが、先輩でもあり、イエス様から直接弟子に招かれたペテロを、教会の面前で非難したできごとです。

エルサレムから始まった新しい教会の宣教は、ユダヤ人にとどまらず、異邦人にもおよび、各地にキリスト者の交わり(教会)が生まれてきました。教会の中には、イエスを信じるユダヤ人と、それ以外の他の国の人達、異邦人が集っていました。ペテロはユダヤ人でしたが、宣教の拡大とともに、異邦人とも交わりを持つようになりました。しかし割礼派の人々が来ると、まるで彼らの機嫌を取るかのようになり、異邦人から離れて行ってしまったのです。割礼派の人とは、イエスを信じていてもなお、ユダヤ人として律法を固く守っている人たちのことでしょう。

パウロがペテロを叱責したポイントは、福音はイエスキリストの喜ばしいニュースである、何が喜ばしいかというと、人々の罪が赦され天国への道が開かれただけでなく、キリストにあって人が義と認められ、さらに人種の壁はなく、神の恵みによって一つにされているということです。そのことをペテロは知っているはずなのに、しかも私より信仰の先輩なのに何たることか!ということで、パウロは叱責したのでしょう。のちにペテロは、異邦人にも福音を述べ伝えるようになっていくわけですから、建徳的な叱責でした。教会には、時にこのような厳しいぶつかり合いが、必要なのですね。

大切なことは、2021節にあるように、イエスキリストの死によって生かされ、肉の原理ではなく、神の原理によって生きるということです。私たちも、他の人を差別したり、神様よりも自分中心に考えて行動することはないでしょうか。神様の前に、私たちの人生の申し開きをしなくてならない時が来ます。その日の前に、自らが福音の真理に向かっているかどうか、いつも点検して歩んでまいりましょう。

 「私たちの主であり救い主であるイエスキリストの恵みと知識において

 成長しなさい。2ペテロ3:18

« 2018年10月 | トップページ | 2018年12月 »