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2018年12月 9日 (日)

神の目に留まる者 ルカ1:39-56  2018.12.9

降誕祭、クリスマスの物語に方向があるとすれば、それは上から下ではないかと思います。高い所におられる神様が、低いところにいるもののために降って来て、その人を引き上げてくださる、というイメージです。

本日の個所、特に4656節は、エリサベツに出会ったマリアが歌った賛美で、その出だしのラテン語を取ってマグニフィカトと言われています。ベツレヘムにある訪問教会の壁には、24か国語で書かかれたプレートが貼ってあります。日本語もありました。

主の降誕物語のキーワードの一つは、ダビデという言葉です。イスラエルの最も偉大な王であり、ダビデ王家の家紋は、現イスラエル国旗の紋章として描かれています。イエスは、アブラハムの子孫であるとともに、ダビデの子孫です(マタイ1:1)。マリアの夫ヨセフも、ダビデの家系でした(ルカ1:27)。東方の博士たちは、新しい王が生まれたことを知り、王宮のあるエルサレムを目指してやってきました(マタイ2:1)。実際にはベツレヘムで生まれたのですが、そこはダビデの誕生した町でもあることからダビデの町とよばれ、羊飼いは救い主と会うためにベツレヘムへの急いだのです(ルカ2:11)

このようなことを考えに入れると、その母マリアは王を生んだ母ということですから、とてもえらい人、ということになるでしょう。しかしマリアは、自分をそのような者であるとは思わなかったのです。もっと身分の高い、王宮に住むような人こそ、それにふさわしいことだと考えていたのではないでしょうか。マグニフィカトを読むと、マリヤは如何に自分を低いものとして捉えているかがわかります(48)。しかし、決して自分を卑下してはいないのです。そのようなものに目を留めてくださった方(心にかけてくださった、という訳もある)を覚え、賛美しているのです。低いものを引き上げてくださる、それはまことの神様であり、その方に思いを向けているのです。

イエスキリストは、神である方なのに、人としてこられた方です。生涯の最後は死刑であり、しかもその場所はユダヤ人にとっては呪いの場所である木の上、十字架でした。ユダヤ人社会で起きた出来事であることを思うと、これ以上辱められ、低いところに落とされることはないのです。しかし、イエス様が低いところに降って来られたからこそ、私たちを引き上げてくださるのです。それは、復活の主の力です。

低く打ちのめされた者でも、そこから主を見上げることができれば、その人こそ神の目に留まる者なのです。

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