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2018年12月

2018年12月30日 (日)

癒されて新しい年を迎える  詩篇6:1-10  2018.12.30

この時期になると、無病息災家内安全商売繁盛を願う風景が見られます。大掃除をして家を清めて、すがすがしい気持ちで新年を迎えたいとは、誰もが願うことでしょう。

詩篇6篇は、作者がとてもつらい状況に置かれており、神の怒りが自分に降ったかのように感じている詩篇です。そのような中で、癒しを求め、救われることを切に願っているのです。この詩篇は、7つの悔い改めの詩篇の一つに分類されています。ポイントは、悔い改めるということです。いわば、こころの大掃除です。しかし汚れを落とすというのではなく、神様のとの関係を元の正しい関係に戻し、神様に従って歩む決心をするということです。

「わたしを癒してください」とあることから、詩人は大きな病を抱えていたのかもしれません(2)。ヘブル語聖書で病気を表す言葉の一つは、「打つ」「触れる」という言葉から派生したものです。病気という概念の最も基本的なものは、(神様も含め)何かに打たれるということだと考えられます。ですから、病が重ければ重いほど、何かの原因で自分は打ちのめされたのではないかと、考えてしまうのは当然のことでしょう。だれでも、無病息災を願います。病をおっていたら、癒されて元気になることを願うのは、世の東西を問わず、全世界で共通のことでしょう。病が癒されるということは、悪い患部が治るということよりも、私たちを打つことすらできる神様との関係が正されることであり、それが完全な回復であると思います。

またこの詩人は、敵対する者や悪を行う者を恐れていたと思われます(78)。彼に危害を加える人がいたのでしょうか。聖書では、最後の敵は死である、と言っています(1コリント15:26)。とすると、死の恐れから解放されるのは、神様との正しい関係を取り戻さなければできないこととなります。人が病み、そして死ぬ存在であるのは、突き詰めれば神様との正しい関係を失った罪びとであることにその原因があるのです。

その解決は、人として生まれてくださり、十字架上で死なれたイエスにあります。イエスは人の罪を負った方でした。イエスが受けられた傷こそが、わたしたちを癒すのです。1ペテロ2:24「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」

癒されて新しい年を迎えるとは、悔い改めて神様との正しい関係を回復して、新しい年を歩むということに他ならないのです。2019年も、豊かな祝福がありますように。

2018年12月 9日 (日)

神の目に留まる者 ルカ1:39-56  2018.12.9

降誕祭、クリスマスの物語に方向があるとすれば、それは上から下ではないかと思います。高い所におられる神様が、低いところにいるもののために降って来て、その人を引き上げてくださる、というイメージです。

本日の個所、特に4656節は、エリサベツに出会ったマリアが歌った賛美で、その出だしのラテン語を取ってマグニフィカトと言われています。ベツレヘムにある訪問教会の壁には、24か国語で書かかれたプレートが貼ってあります。日本語もありました。

主の降誕物語のキーワードの一つは、ダビデという言葉です。イスラエルの最も偉大な王であり、ダビデ王家の家紋は、現イスラエル国旗の紋章として描かれています。イエスは、アブラハムの子孫であるとともに、ダビデの子孫です(マタイ1:1)。マリアの夫ヨセフも、ダビデの家系でした(ルカ1:27)。東方の博士たちは、新しい王が生まれたことを知り、王宮のあるエルサレムを目指してやってきました(マタイ2:1)。実際にはベツレヘムで生まれたのですが、そこはダビデの誕生した町でもあることからダビデの町とよばれ、羊飼いは救い主と会うためにベツレヘムへの急いだのです(ルカ2:11)

このようなことを考えに入れると、その母マリアは王を生んだ母ということですから、とてもえらい人、ということになるでしょう。しかしマリアは、自分をそのような者であるとは思わなかったのです。もっと身分の高い、王宮に住むような人こそ、それにふさわしいことだと考えていたのではないでしょうか。マグニフィカトを読むと、マリヤは如何に自分を低いものとして捉えているかがわかります(48)。しかし、決して自分を卑下してはいないのです。そのようなものに目を留めてくださった方(心にかけてくださった、という訳もある)を覚え、賛美しているのです。低いものを引き上げてくださる、それはまことの神様であり、その方に思いを向けているのです。

イエスキリストは、神である方なのに、人としてこられた方です。生涯の最後は死刑であり、しかもその場所はユダヤ人にとっては呪いの場所である木の上、十字架でした。ユダヤ人社会で起きた出来事であることを思うと、これ以上辱められ、低いところに落とされることはないのです。しかし、イエス様が低いところに降って来られたからこそ、私たちを引き上げてくださるのです。それは、復活の主の力です。

低く打ちのめされた者でも、そこから主を見上げることができれば、その人こそ神の目に留まる者なのです。

2018年12月 2日 (日)

荒野で神を信じる  ガラテヤ3:7-14  2018.12.2

降誕祭、第1主日を迎えました。イエスの誕生の物語は、マタイとルカの福音書に書かれています。新約聖書、1ページ目の第1(マタイ1:1)は、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエスキリストの系図」とあります。三浦綾子さんの小説「塩苅峠」には、このマタイから聖書を読み始めた主人公がいつの間にか眠ってしまうというシーンが描くように、私たちにはわかりにくい人の名前が続いている、あまり面白くない箇所であると言えます。

しかし、「アブラハムの子孫」という書き出しこそ、イエス様が人としてお生まれになったことを表す重要な書き出しなのです。アブラハムは、民族で言えば、ユダヤ人、アラブ人の先祖となります。本日のテキストの次にある4:22には「アブラハムには二人の子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた」とあります。アブラハムには長く子供がいなかったので、彼に仕えている女によって男子を設けます。それがイシュマエルであり、アラブ人の先祖と言われています。妻であるサラにようやく子供が与えられ、イサクと名づけられました。ユダヤ人の先祖である、ということです。宗教的にみれば、かなり大雑把な言い方で申し訳ないのですが、ユダヤ人はユダヤ教徒、アラブ人はイスラム教徒といえます。イスラム教徒にとってアブラハムは、偉大な預言者の一人です。

アブラハムは荒野で神の声を聞き、神を信じ、それが彼の義と認められるところとなりました(6節、創世記15:6)。この神を信じる人、言い換えれば、人としてこられたイエスキリストを信じる人キリスト者は、霊的にアブラハムの子孫と言えます。それがこのガラテヤ3章で語られていることであり(14)、ローマ人への手紙4章でも言われていることです(ローマ4:16)。アブラハムを共通の父としているユダヤ教徒、イスラムの人達、そしてキリスト教徒は、このことを出発点として親しい交わり、平和な関係を築けるのではないかと思います。

それはひとまず置いておくとして、ヨハネの語るクリスマスを見てみましょう。ヨハネはイエスの誕生を物語ではなく、その意味、神様からのメッセージを書いています。イエスはまことの光であり、言葉であり、そして命を与える方です。このイエスを信じる者は、人の思いからではなく神によって生まれた者であり、神の子供とされるというメッセージです。あなたにも誕生の物語があり、家族の歴史があるでしょう。受け入れがたいこともあるかもしれません。アブラハムが旅をした荒野とは、神の言葉を聞く場所です。荒野のような人生であっても、まことの言葉であるイエスがおられるのです。イエスキリスト誕生の物語は、このイエスに言葉を聞いて信じる、私たちの物語に重なっていくのです。

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