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2019年1月

2019年1月20日 (日)

逃げ場  詩篇11:1-7  2019.1.20

 昨年、長崎の潜伏キリシタン遺跡群が世界遺産に登録されました。キリシタン殉教の歴史は、ステンドグラスの入った教会のたたずみと合わせて、ロマン的歴史として語られるかもしれません。しかし当時の吟味、取り調べは過酷なものでした。映画にもなった遠藤周作氏の「沈黙」に登場する井上政重、通称築後守は、キリシタンや宣教師、神父を捕らえて処刑するというこれまでの方針を変え、彼らを棄教させる、つまり転ばせることに精力を使いました。私なりに彼のその方針にあるものは、キリシタンたちが信じている神などいないではないか、ということを示すことにあったと思います。「神がいるならば、どうしてこんなひどいことが起きるのか、神がいるならばこの苦しみから救われるはずではないか、しかし神は何も言わない、お前たちの信じている神などいないのだ!」ということでしょう。

 詩篇11、そして14篇は、信仰者に神の不在、神を信じることの愚かさを訴えている人に対し、主なる神は確かにおられ、その方のもとに安らぐことの幸を歌ったものです。11篇の背景は、作者が何者かに追われ、そこから逃げている出来事があったと思われます。3、7篇の表題と似ていますね。たしかに、逃げることなく立ち向かうことは大切なことです。過日引退を表明した稀勢の里関は、自分の立場から逃げることなく最後まで綱を張った力士であったと思います。

 しかし時には、逃げなければ、あるいは避けなければ自分の命を失うことがあります。大切なのは、逃げ場や避難所はしっかりと保護してくれるところであるかどうか、ということです。この詩篇の作者、それはダビデであると思われますが、主なる神様こそ私たちを守ってくださる真の避け所であると歌っています。

 「鳥のように自分の山に飛んでいけ」とは面白い表現です。丘の上教会の東側には、森があります。そこは野鳥のねぐらとなっています。朝にはキジの甲高い声が聞こえ、夜にはフクロウの低い声が聞こえてきます。新聖歌313番は、このテーマをうたった讃美歌と言えるでしょう。「鳥のごと山に逃げよわが魂、真清水は傷を たちまち癒さん、仇びとは間近に攻め来る時も、救い主そばにませばなど恐れん、ませばなど恐れん」

 聖書には、預言者をはじめ多くの人たちが逃げ場を持ち、そこに身を避けることによって癒されて再び立ち上がる様が描かれています。キリスト教会では、リトリート(退修会)、サバティカル(安息)といった呼び名で、普段の生活から離れて静まり、再び立つ力を受ける期間を持つことが勧められています。どのような困難があっても、身を避ける場所がある。誰が何と言おうと、主なる神が私たちの逃げ場となってくださっているのです。

2019年1月13日 (日)

教会を通して広まる福音  使徒11:19-26  2019.1.13

本日は、東地区7教会による新年聖会、合同の礼拝が越谷で持たれる日です。今回のテーマは「キリストにあって一つ-教会の多様性と一致」であり、浦和教会の坂野慶吉先生が説教をしてくださいます。また、一つであることの表れとして、聖餐式も行われることなっております。事情があってその時間に集うことのできない兄姉のために、そのことを心に留めながらの礼拝であり、説教です。

日本に福音が伝えらえれ、教会が生み出されたのは、1549年です。一番最初の教会は、イエス様昇天後聖霊が下った約2000年前、エルサレムに生まれました。いわゆる初代教会です。そこから福音は全世界に広まって、今日に至っています。この福音は、人から人へ伝えられていったのですが、教会を通してのことでした。個人的にお伝えする、というようなことではなかったのです。

本日のテキストは、初めはユダヤ人しか知らなかった福音が、言葉の違いや国境を越えて、当時の地中海世界にあるギリシャ語を話す人達(ヘレニスト)に広まっていったこと様子が描かれています。その拠点となったのは、アンティオキアにある教会でした。ローマによってエルサレムは占領され、神殿は破壊されました。ユダヤ人は離散の民となりました。エルサレムあった神殿礼拝を基にしたユダヤ人中心の交わりから、ユダヤ人以外の人達(異邦人)が集まる教会が多くなっていったと思われます。イエス様が命じられた「全世界に出て行って福音を伝えよ」との言葉をダイナミックに実践したのが、アンティオキアの教会といえるでしょう。この街で、イエスを信じている人たち、弟子たちは初めてキリスト者と呼ばれたのです。英語で言えば、クリスチャンですね。キリスト+イアン、ということで、キリストに付く者、キリストに従う者という意味です。春日部の町を愛する人をカスカビアンと言うのですが、同じ発想です。地域を越えて、教会が生まれ、形造られていきました。

福音の宣教は、教会を通してなされたのです。なぜでしょうか?それは、わたしたちの主イエスが愛されたのは、教会だったからです(エペソ5:25)。このイエス様による教会への愛は、今も変わることがありません。キリスト教2000年、日本のキリスト教史約570年の中で、教会が生まれ今日に至っています。祝福とともに、いろいろな困難も抱えています。負の歴史の部分もあったことでしょう。今年、2019年は日本の歴史の中でも大切な年になるような気がいたします。そのような時代で、教会はその使命である福音を宣べ伝えることをやめることはできません。教会は、わたしたちの主が命を懸けて愛してくださった、キリスト者の群れであり、全世界の教会は同じ愛と使命を持っているからです。

2019年1月 6日 (日)

小さい者であることを悟る  詩篇8:1-9  2019.1.6

主イエスキリストの2019年、明けましておめでとうございます。本年も説教要約をつづってまいりますので、お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

昨年「日日是好日」という映画を観ました。同名の小説を映画化したもので、樹木希林さんが全身がんに侵されながらも茶の湯の先生として出演されたことで、話題になりました。その一場面に、床の間に「瀧」という一文字が書かれており、そこから主人公が堂々と流れ落ちる滝をイメージするシーンがありました。軸はたとい読めなくても、眺めれば良いものだということを語る場面です。

丘の上教会の新年茶会では、「神」という一文字の軸が掛けられました。筆の最後はすうーっと下に引かれている、本田弘慈先生による書です。さて、この軸を観る人は、どんな「神」をイメージするでしょうか。映画のように映像で描くと、どのような場面になるでしょうか?

本紙には、創世記171節とあり、99歳になったアブラム(のちにアブラハム)に語られた神様の言葉で、ここに書かれている神とは全能の神であることがわかります。詩篇8篇の1節、3節にあるように、この世界のすべての基である神を表しています。それに比して、人間はなんと小さい存在でしょうか。しかしそんな小さな存在であっても、神が目を留めて生かしてくださっているということを歌っているのが4節の言葉です。

30年もの長きにわたり原因の分からない病に苦しんでいたある方が、こう書いておられました。「私は本物の宗教に出会えたと思う。それは自分がいかに小さいかということを知ることであった。…宇宙のなかの小さい自分に気づいてみると、自分が宇宙の懐に抱きかかえられているように感じられた。…何でもないことであった。この一つに気づいたことで、私の心はすっとほどけた。」その方の病の原因が後にわかり、病そのものを抱えながらも、良き隣人の支えもあり癒された日々を送っておられます。

これはまさに、待降節で学んだ、乙女マリアの心境でもあったと思います。小さな自分であることに気づくことは、実は圧倒的に大きな神様の懐に抱かれ、自分らしく生きていく力と希望を与えられることなのです。神様は、この小さな人間に、この世界を正しく治め、管理することを命じられました。不遜にも、おのれの力を過大に評価し、この世界を自分のものにしようとしたところに環境の破壊があり、独裁・恐怖政治が行われ、経済の営みにも格差が生まれてしまうのではないでしょうか。

小さい者であることを悟れば、自分だけでなく、他の人をも大切にする、そしてお互いが支え合って生きる喜びを知っていけることでしょう。

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