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2019年2月

2019年2月24日 (日)

見捨てることのない神  詩篇16:1-11  2019.2.24

私たちの生活において、人に見捨てられるほど悲しい経験はないと思います。また、理不尽な仕打ちを受けたり、思わぬ事故に遭遇するようなことがあれば、運に見放された、あるいは、神に見捨てられたと感じることでしょう。

詩篇16篇の作者は、まず「神よ、私をお守りください。私はあなたに身を避けています。」と語ります。赤ちゃんがお母さんの腕の中に抱かれ、守られているようなイメージです。「どんなことがあっても、お母ちゃんは僕のことを守ってくれる!」という信頼感があるのです。ところが、私たちの周りでは、親が子供を虐待し、命までも奪ってしまうというニュースが毎日のように聞こえてくるのです。親が我が子を見捨ててしまうのです。私の感覚では、ありえないことです。

2節から6節は、さらに続けて神様に信頼する作者の言葉が続いています。測り縄を使って人の領分が測られ、そして守られるように、神様が守ってくださるのです。

7節から11節は、神を賛美する言葉です。神のくださる幸いは、9節にあるように、喜びと楽しみと安らぎです。10節と11節は、死という神に見捨てられるように思う出来事に遭遇したとしても、なお神は生かしてくださることを歌っています。そしてこのみ言葉は、新約聖書にも引用されているのです。ペテロは、あのペンテコステの日に、帝国内の各地から祭りのために上ってきた同胞に、イエスキリストの物語を語りました。そしてこのみ言葉を引用して、イエスの復活を語ったのです。その結果、人々は心を刺され、悔い改めてイエスを信じバプテスマを受けたのです。3000人もの人々がキリストを信じ、エルサレムに教会が生まれたのでした。アンティオキアに旅をしたパウロも又、このみ言葉を引用し、イエスの復活を語りました。この時、ユダヤ人は彼に反対してパウロをののしりましたが、異邦人たちは喜んで彼の言葉に耳を傾け、イエスを信じる人たちが多く起こされたのでした。ペテロやパウロの説教は諸刃の剣のように、信じる者とこれを拒絶する者に分けてしまいました。しかし二人とも、詩篇16を引用して、ナザレ人イエスは死んだけれどもよみがえり、これこそが福音のメッセージの確信であることを語ったのでした。

どんなことが起ころうとも私たちを見捨てることのないお方が、今日もいてくださるのです。

へブル12:2 

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

2019年2月 3日 (日)

神の臨在  詩篇15:1-5  2019.2.3

教会に集うようになって、同じような年代の青年達と軽井沢でキャンプを行いました。開会の礼拝で歌われたのが、新聖歌316でした。その歌詞の第3節に「いかにきよき交わりぞや、妨ぐるものなし、昼も夜も臨在あり、依り頼むわれらに」とありました。この賛美に感動し、語られた説教(青年担当執事のIさんが、山室軍平の生涯からお話ししてくれた)によって、神様がともにいてくださること、その神様に自分をおまかせして歩むことがいかに大切なことか、ということを教えられた時となりました。

詩篇15篇は、14篇とは違って、神がイスラエルの民とともにいてくださること(神の臨在)をはっきりと語り、その証しとしてきよい生活があることを示しています。2節から5節には、極めて実際的な生活の勧めが記されています。「主に捨てられたものを蔑み」と4節には厳しいことが書かれていますが、心底神様に従うことの大切さを逆説的に言った言葉であると理解できます。

1節の言わんとしていることは、「幕屋」と「聖なる山」にこそ神がおられるということです。幕屋とは、イスラエルの民の行く先々で建てたテントであり、神を礼拝する場所でした。モーセによるエジプト脱出から始まる荒野を放浪している時代から始まり、カナンの地にイスラエルの部族が定着するまでの期間にありました。聖なる山とはシオンのことで、エルサレムに建てられた神殿と言ってよいでしょう。ダビデが準備をし、その子ソロモンが神殿の建築を完成させ、奏献の祈りが1列王記8章に書かれています。

幕屋も神殿も、神の臨在の象徴でした。実際には人の手で作った建物の中に神を入れることなどできないことは、ソロモンの認識しているところでした。創造主である神様は、時間や空間に制限されるお方ではありません。どこにでもおられ、神を信じる者とともにいてくださる方なのです。

イエスキリストの救いの御業によって、信者は神の宮とされています。

  1コリント6:1920.あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あ 

 なたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや

 自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたので

 す。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

幕屋や神殿は今はありませんが、日常茶飯事にあっても神様がおられることを忘れてはならないのです。神の臨在こそが、私たちをどんな境遇にあっても支えてくださる力となるからです。

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