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2019年3月31日 (日)

悔い改めなければ  ルカ13:1-9  2019.3.31

受難節、第4主日となりました。本日のテキストは、思いがけない災難に遭った人たちのことが描かれている箇所です。20113月のあの大震災、津波、そして原発事故の後に書かれたこの個所の注解、あるいは引用した文章を読むと、それ以前の物と内容が違っているように感じます。ほかの人と言うより、私もこの個所の読み方、理解の仕方が変わったと思っております。何よりも、聖書に書かれていることは他人ごとではなく、まず自分自身に向けられている言葉であるという理解です。これは当たり前のことなのですが、実際にはそこに描かれているイエス様の物語をどれだけ真剣に自分のこととして捉えているか、探られるところです。

イエスが大勢の人々に話をされているまさにその最中に、ある人達がやってきました。そして、ガリラヤ人がその礼拝中に危害を加えられ、死傷者が出ている、というようなことを告げたのです。犠牲になった人たちは、神様の罰が当たった罪深い人達ではなかったのか、と思った人がいたのでしょう。イエスはすかさず言われました。「そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と。そして、シロアムの塔が倒れ、下敷きなってしまった人たちの出来事を引き合いに出して、再び同じことを言われたのです。1-5節までのキーワードは、「悔い改めなければ」ということです。

悔い改めとは、方向を変えること、神様のとのかかわりでいえば、神に立ち帰ることです。続いて語られたぶどう園に植えたいちじくの木のたとえ話は、その悔い改めの実が結ばれなければ、切倒されてしまう(滅ぼされてしまう)ということです。口先だけではない真の悔い改めには、目に見えるもの、実際生活の変化が必ずあるということです。イエスの苦難は、ご自分の罪の故ではなかったので、悔い改める必要はありません。その苦難が、自分のためであったことを知る時、私たちは悔い改め、神に立ち帰ることができるのです。

奥様を天に送って20年以上、丘の上会堂に集っている方が、当教会の受洗者名簿に登録されました。50年前に洗礼を受けておられましたが、洗礼を受けた日は復活祭ではなく受難節の日曜日でした。その理由は、キリストと苦難を共にした弟子のように、受難前から信仰の道に入ろうと決心したからだと言われるのです。

ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。ローマ11:22

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