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2019年6月

2019年6月23日 (日)

礼拝者の姿勢 詩篇24:1-10  2019.6.23

 世界中のキリスト者は、日曜日に集い、礼拝をささげています。そのスタイルは違っていても、神を求める求道者であり、礼拝者であることに変わりはないでしょう。本篇は、その礼拝者の姿勢の基本を語っている詩篇と言えるでしょう。

 1節2節は、礼拝の対象である神は、天地万物を造られた方であることを明らかにしています。これはキリスト者の物事を考える根本にあることです。ドイツの首相であるアンゲラ・メルケル氏は、政教分離の国にあって、ご自分の行動の原理にはこの信仰があることを多く語っておられます(「私の信仰」新教出版社、2018)。天地を造られた神の存在は、この世界に秩序があり、美しいものであり、それぞれに違いがあっても尊いものであることを示しています。そこから他の国との関わり、エネルギー問題、難民問題への取り組みなどが導かれてくるのでしょう。

 3節から6節には、どのような人が真の礼拝者として神の宮、神殿に詣でることができるかということを示しています。主の山、聖なる所とは、聖書の時代では、今日のエルサレム、そしてそこに建てられた神殿のことでしょう。現代にあてはめれば、礼拝の場所と言えるでしょう。そこに集う礼拝者は、きよくなければならないのです。この「きよい」ということは、道徳的にも立派な人で、汚れを知らないということではありません。主イエスが山の上で語られたように、心を空しくしてただ神に思いを向け、子供様な純粋な思いをもって神により頼む心です。心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです(マタイ4:8)

 7-10は、神殿の門や戸()が擬人化されています。神殿に入ってくるのは、まず神様ご自身なのです。その方は余りにも栄光に富み偉大なので、門や扉は高く上げられなければ、どこかひっかかって入れなくなってしまうというのです。面白い表現だと思います。あるいは、神が入られるので、神殿の扉が大きく開かれるというイメージでしょうか。日本文化の中では、観音開きのようになるということでしょう。栄光と力に富んだ神に続いて、礼拝者が神殿に詣でることができるのです。

 いま私たちは、それぞれのところに建てられた教会に集い、礼拝をささげています。そこは礼拝堂ではなく、家や集会所のようなところである場合もあります。大切なのは、イエスキリストはご自分がなだめの供え物となって、先に入られたので、私たちも礼拝の場に行くことができるということです(へブル4:16)

 先導者であるイエスから目を離さないこと、そしてイエスの歩まれた道をたどること、これが、礼拝者の姿勢なのです。

 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。へブル4:16

 

2019年6月16日 (日)

主に信頼する  詩篇23:1-6  2019.6.16

もっともよく知られている詩篇23となりました。表題にあるように、ダビデの詩であると言われています。サウル王に召し抱えられる前、ダビデは羊を飼う人でした。彼の体験があればこそ、ここに歌われている羊と羊飼いの信頼関係がリアルに、そして美しく描かれることとなったと思います。

 この詩篇のテーマは、神への信頼です。1節に「主は私の羊飼い」とありますが、この一言がこの詩人の信仰を表しています。チイロバ牧師として知られた榎本保郎先生は、「旧約聖書11章」の中で、「主は、と言って神に望みをおくという、そこに立つことができないときには、礼拝に出ても単に守るべきものとして出ているだけで、そこには何の喜びも力もない」と解説しておられ、誰であれ神様に心底信頼することの大切さを説いています。そしてこの詩篇23は、主なる神様こそ、私たちとともにいて命を守り、祝福してくださる方であることが歌われているのです。

 主イエスもご自分と人々の関係を、羊飼いと羊にたとえておられます。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11) イエス様こそが真の羊飼いである、私たちを守り導くお方なのです。ルカ15にある百匹の羊を持っていた羊飼いの喩も、良く知られていますね。

 聖書翻訳の観点から見ると、新改訳2017と第3版までの聖書では、5節にその違いが見られます。詳細は「聖書翻訳を語る-新改訳2017、何をどう変えたのか」(いのちのことば社)をご覧いただけると良いと思います。私なりにまとめると、2017による5節は、敵と私と食卓の位置関係が良くわかる訳になっていると思います。敵との距離は、自分の視界に入ってはいるがやや遠くにある、それに比べて神様が用意してくださる食卓はすぐ近くにあって、手を伸ばせば食べることができるという距離感です。その食卓に置かれている杯には溢れるほどのぶどう酒がなみなみと注がれ、お祝いの品々でふんだんに並んでいる。そして主人は、自分の頭に祝福の油を注いで大いに歓待してくれている、という光景です。敵がすぐ近くに迫っていても、もっと近くに主人である神様がいてくださるので、安心して楽しむことができる、というものです。もとより、2節にある牧場の草は、荒野の中で茂っている牧草のことであり、ふさふさした青草が生い茂る光景ではありません。水は荒野の中で、やっと見つけられるという貴重なものです。厳しい困難な中でも、神様の守りがあるのです。

私たちが荒野を行き、死の影の谷に突き落とされるような事があっても、主は私たちの側にいて、守り導き、行きべき道を示してくださる方なのです。

 

2019年6月 9日 (日)

キリストの弟子となる交わり 使徒2:40-47  2019.6.9

本日は、教会歴でいうと、聖霊降臨日です。当教会では長年、この日には使徒2章から初代教会の姿に学んできています。同じ聖書個所ですが、今年は「キリストの弟子となる交わり」という題にしました。これは、ハンス・ビュルキ師の「主の弟子となる交わり」(いのちのことば社、1999)が元になっています。昨年の祈り会では、この本をテキストに学びの時を持ってきました。

 41節には「その日、3千人ほどが仲間に加えられた」とあります。ところが、新改訳第3版までは「弟子に加えられた」とあるのです。ギリシャ語本文には、この41節には「弟子」という言葉はありません。「彼らに加えられた」というのが直訳なので、こちらの訳を取ったのだと思います。彼らというのは、イエス様に直接選ばれた使徒たちを加えた、エルサレムで祈りつつ聖霊の降臨を待っていた120名ほどの人たちをさします(使徒1:15)。のちに、イエスキリストを信じている人たちは、キリスト者とよばれるようになります。「弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者とよばれるようになった」(使徒11:26)とあります。キリスト者=弟子であり、今年の年間賛美にあるように、キリストを第1として生きるものです。第3版やラゲ訳、大正訳では、このような意味を汲んで「弟子に加えられた」と訳したのだと思います。個人的には、こちらの方がいいのではないかと思います。

 ビュルキ先生の前掲の本を読んで思うのは、キリスト者の交わりには、方向性があるということです。一番小さな交わりの単位、二人であっても、あるいは大きな単位であっても、キリストの弟子となることを目指しお互いが切磋琢磨する。そこにはうれしい事だけでなく辛いこともある、お互いにぶつかることもある、しかしキリストの御丈まで成長するように励まし合っていく、これがキリスト者の交わり、教会の姿です。そのことによって、周りの人達から好意を持たれ、救われる人たちも仲間(教会)に加えられていくのです。

 私にとってのこのような交わりの最初は、教会が借りた小さな家に、今も友人であるもう一人の兄弟とともに住んだことです。その家に、同じ年代の若者が集まり、聖書を開く交わりを通して救われ、それぞれに成長していきました。家も、現在の丘の上会堂となりました。今は、私が最年少である交わり、「丘の上黎明会」がこれに当たります。キリストの弟子となる交わりの集まりが合わさって、教会全体の交わりとなっていくのです。

エペソ3:19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

2019年6月 2日 (日)

なおも神を待ち望む 詩篇22:1-21 2019.6.2

表題に「暁の雌鹿」の調べに合わせて、とあります。黎明会メンバーにはふさわしい表題ですね。朝毎に歌われる詩篇だったようですが、これが実際どのようなメロディーであったのかは、わからないようです。日本の雌鹿の泣く声も聞いたことのない自分には、なかなか想像するのが難しいところです。しかし尺八の曲で「鹿の遠音」というのを聞いたことがあります。二頭の鹿(あるいはカップル)がお互いに遠くから鳴き交わす楽曲なのですが、そのイメージが浮かんできてしまいます。

 本篇は、イエスの十字架の処刑の場面に引用されている聖句が、1節、7,8節、11節、18節、に記されています。イエスの受難を預言している詩篇ともいえるでしょう。また本篇には、雌鹿のほかに、雄牛(12)、犬(16、20)、獅子(1321)、野牛(21)という四つの動物が出てきます。雌鹿は雅歌によれば愛する人のことですから、救い主であるイエスの喩となっている動物です。ほかの四つの動物は、これに対抗するイスラエルの指導者、イエスをあざける人々、そしてサタンを喩えている動物であると言えます。

 また6節には「私は虫けらです」と言って、作者自身を人々から嫌われ、踏みつけられ潰される小さな虫にたとえています。出エジプト記には、この言葉が腐ったマナにわく虫として描かれています(出エ16:20)。面白いことに、22:6に使われている虫は、ココス・イリシスという名前の小さな虫で、潰すと緋色の染料の元になるのだそうです。イザヤ1:18にある「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」と同じ言葉です。この染料で染めた色はなかなか落ちないということですから、緋色は頑固な罪を表す喩えです。しかし神は、罪に染まった私たちを清めてくださる方であることが、強調されています。十字架で流されたキリストの血が、私たちの罪をきよめてくださることを、知ることができるのです。

 ダビデは、人間の罪故の苦しみ、あるいは病気や不条理な苦しみの中でも、神に訴え、祈り、呼びかけています。しかし何も答えてくれない、まさに沈黙しているような神様への訴えを、やめることはないのです。「わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と十字架で叫ばれたイエスは、「父よ、わが霊をみ手に委ねます」と祈り、苦しみの中ですべてを神様に委ねて息を引き取られたのです。このイエスを、父なる神はよみがえらせ、イエスを信じる者に命を与えてくださいました。神を求め、神の救いを待ち望む者は、見捨てられることはないのです。

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