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2019年6月 2日 (日)

なおも神を待ち望む 詩篇22:1-21 2019.6.2

表題に「暁の雌鹿」の調べに合わせて、とあります。黎明会メンバーにはふさわしい表題ですね。朝毎に歌われる詩篇だったようですが、これが実際どのようなメロディーであったのかは、わからないようです。日本の雌鹿の泣く声も聞いたことのない自分には、なかなか想像するのが難しいところです。しかし尺八の曲で「鹿の遠音」というのを聞いたことがあります。二頭の鹿(あるいはカップル)がお互いに遠くから鳴き交わす楽曲なのですが、そのイメージが浮かんできてしまいます。

 本篇は、イエスの十字架の処刑の場面に引用されている聖句が、1節、7,8節、11節、18節、に記されています。イエスの受難を預言している詩篇ともいえるでしょう。また本篇には、雌鹿のほかに、雄牛(12)、犬(16、20)、獅子(1321)、野牛(21)という四つの動物が出てきます。雌鹿は雅歌によれば愛する人のことですから、救い主であるイエスの喩となっている動物です。ほかの四つの動物は、これに対抗するイスラエルの指導者、イエスをあざける人々、そしてサタンを喩えている動物であると言えます。

 また6節には「私は虫けらです」と言って、作者自身を人々から嫌われ、踏みつけられ潰される小さな虫にたとえています。出エジプト記には、この言葉が腐ったマナにわく虫として描かれています(出エ16:20)。面白いことに、22:6に使われている虫は、ココス・イリシスという名前の小さな虫で、潰すと緋色の染料の元になるのだそうです。イザヤ1:18にある「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」と同じ言葉です。この染料で染めた色はなかなか落ちないということですから、緋色は頑固な罪を表す喩えです。しかし神は、罪に染まった私たちを清めてくださる方であることが、強調されています。十字架で流されたキリストの血が、私たちの罪をきよめてくださることを、知ることができるのです。

 ダビデは、人間の罪故の苦しみ、あるいは病気や不条理な苦しみの中でも、神に訴え、祈り、呼びかけています。しかし何も答えてくれない、まさに沈黙しているような神様への訴えを、やめることはないのです。「わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と十字架で叫ばれたイエスは、「父よ、わが霊をみ手に委ねます」と祈り、苦しみの中ですべてを神様に委ねて息を引き取られたのです。このイエスを、父なる神はよみがえらせ、イエスを信じる者に命を与えてくださいました。神を求め、神の救いを待ち望む者は、見捨てられることはないのです。

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