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2019年6月 9日 (日)

キリストの弟子となる交わり 使徒2:40-47  2019.6.9

本日は、教会歴でいうと、聖霊降臨日です。当教会では長年、この日には使徒2章から初代教会の姿に学んできています。同じ聖書個所ですが、今年は「キリストの弟子となる交わり」という題にしました。これは、ハンス・ビュルキ師の「主の弟子となる交わり」(いのちのことば社、1999)が元になっています。昨年の祈り会では、この本をテキストに学びの時を持ってきました。

 41節には「その日、3千人ほどが仲間に加えられた」とあります。ところが、新改訳第3版までは「弟子に加えられた」とあるのです。ギリシャ語本文には、この41節には「弟子」という言葉はありません。「彼らに加えられた」というのが直訳なので、こちらの訳を取ったのだと思います。彼らというのは、イエス様に直接選ばれた使徒たちを加えた、エルサレムで祈りつつ聖霊の降臨を待っていた120名ほどの人たちをさします(使徒1:15)。のちに、イエスキリストを信じている人たちは、キリスト者とよばれるようになります。「弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者とよばれるようになった」(使徒11:26)とあります。キリスト者=弟子であり、今年の年間賛美にあるように、キリストを第1として生きるものです。第3版やラゲ訳、大正訳では、このような意味を汲んで「弟子に加えられた」と訳したのだと思います。個人的には、こちらの方がいいのではないかと思います。

 ビュルキ先生の前掲の本を読んで思うのは、キリスト者の交わりには、方向性があるということです。一番小さな交わりの単位、二人であっても、あるいは大きな単位であっても、キリストの弟子となることを目指しお互いが切磋琢磨する。そこにはうれしい事だけでなく辛いこともある、お互いにぶつかることもある、しかしキリストの御丈まで成長するように励まし合っていく、これがキリスト者の交わり、教会の姿です。そのことによって、周りの人達から好意を持たれ、救われる人たちも仲間(教会)に加えられていくのです。

 私にとってのこのような交わりの最初は、教会が借りた小さな家に、今も友人であるもう一人の兄弟とともに住んだことです。その家に、同じ年代の若者が集まり、聖書を開く交わりを通して救われ、それぞれに成長していきました。家も、現在の丘の上会堂となりました。今は、私が最年少である交わり、「丘の上黎明会」がこれに当たります。キリストの弟子となる交わりの集まりが合わさって、教会全体の交わりとなっていくのです。

エペソ3:19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

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